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評伝・河野裕子 たつぷりと真水を抱きて [河野裕子(かわの・ゆうこ)さんと家族]

評伝・河野裕子:たつぷりと真水を抱きて

評伝・河野裕子:たつぷりと真水を抱きて

  • 作者: 永田 淳
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 2015/08/18
  • メディア: 単行本

私は歌人「河野裕子さん」を表面的にしか理解していなかった。息子が著したこの厚い本(寝っ転がってでは読めなかった!)でようやく把握しようとしている。

…しばらく永田和宏さん&河野裕子(かわのゆうこ)さん夫婦、そして同じく歌人である長男(この本の著者「淳」さん)・長女「紅(こう)さん」の家族から私は遠ざかっていた。
師走に入った頃、自分のblogを遡っていて、急に関連書を読み広げたくなった。
私は未だにガラケーとスマホの間のガラホ族なため、スマホで記事がどう見えているのか?不明なのだが、興味を持ってくれた方にはできればPCで右欄のカテゴリーから「河野裕子さんとその家族」をスクロールして眺めて欲しい

以前、NHKの再現ドラマなどから、闘病中の河野さんの精神状態は激しかったことを知った。当然だろう、普段は穏やかな方が死がちらつく病を得て正常心を失ったのだ…と安易に受けとっていた。
いや、河野さんは幼少の頃から、男まさりの気性だったのだ。強い。いつでもはっきりしている。きっと『夫である永田さん』よりも(※詳細はカテゴリー内を参照)。
そして精神が昂ぶりやすい性質を元来持ち合わせていた。

息子である永田淳さんが、母方の家系のことからまず触れている。「家族」そして「幼い頃の記憶」は河野さんにとって、永遠に詠み続けた題材であった。よくここまで活字におこしたと思う《それは向田邦子さんの妹・和子さんが(自らの責任を持って正確に)姉の恋模様などを公表し、より真の作家の姿をとらえてもらおうとした読者への誠実さと同じだ》。

【とにかく「欲しいと思ったらどんなことがあってもみんな自分のものにしてきた。ほんとうに心をこめてそれを願ったときだけは、不思議に自分のものになったのである」(『森のように獣のように』あとがきより)といった性格である。】

【母は私の連れ合いに、幾度となく「男は3回脱皮します」と言い続けていた。言わんとするところは、若いころの男は幼稚だが、年を経るに従って、あるいは壁に直面しそれを乗り越えるたびに、脱皮しながら成長し強くなっていくんだ、脱皮を繰り返すたびに強く逞しくなっていく、だから現状の息子(つまり私である)だけを見て評価しないでほしい、そんなことが真意であったのだろうと思う。】

【私が成人するまでで一番本を読んだ時期がおそらく、このアメリカ時代である。母同様、日本語に飢えていたのかもしれない。土曜日ごとに日本語学校で図書館から本を借りてきては読んでいた】(妹・紅さんも)
アメリカの自由な気風や文化を摂取し、傾倒しながらもやはり母は抜け難く大和言葉を愛し続けたのだろうという気がしてならない。】
アメリカでの生活経験は、家族4人にとって大きかった。それは河野さんのエッセイにも瑞々しく書かれていた。

しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ】(歌人の後輩の世話)
おせっかいなところもあった。面倒見がよいというか、自分以外のことで働いた。
…この句は、母親である者ならみな共感できると思う。

【歌人として死にゆくよりもこの子らの母親であり君の妻として死ぬ】
息子と娘そして夫にとっては、ふつうの生活する母親(妻)であった。戦後もっとも注目を浴びていた女性歌人という以前に。

息子のことを。
【どこでどう暮らしてゐるのか生野菜むさぼり食う顔難民めきて】
俵万智氏からは、母・河野より「子どもはいくつになってもそのときが一番かわいいのよ」と言われたと聞いた。当時、大学生だった著者(淳)はほとんど家に帰らず、だったそうだが。

乳癌になった時、世間への公表はしない(まずは伏せておく)というのが夫の考えだった。のちにそれは杞憂に終わったそう。
【~病を包み隠した母の歌など読みたくはなかった、と思うのである。そのような歌は間違いなく「濁った」歌であったろう。】
その通り☆

【今ならばまつすぐに言ふ夫ならば庇って欲しかつた医学書閉ぢて】
→歌は詠むが、本来は理系の夫。こう正直に言える河野さんが私は好き。

【風呂の蓋洗ひながら歌ふ歌もなし夫や子遠し彼ら働く】
→自分だけ具合が悪くて家にいる。みなは外で働いているのに。孤独感も募った。

印象深いのは、両親が世間から結婚をまだ許されない若い頃に授かった子をあきらめた事実を書いていること《著者は勝手に兄、と解釈しているそう》。
20歳の頃、自分に恋人ができた際、父親から聞かされたそうだ。自分たちのような苦しみにあわぬよう忠告したのだろう。黙っていることもできただろうに、親としての苦い経験をきちんと伝えた家族(この若かりし件については母当人の句も残っている…)なのだ。

あとがきより。
【~しかしそれでよかったのだと思う。こうして書く機会を強制的であれ与えられたことで、もう一度母を私の中に定位できたと感じている。】
自身も出版社代表である著者が、白水社の編集者に絶対に刊行すべき~と押されてこの本が誕生した。

河野さんが亡くなってから、存在を知った口である。私は。恥ずかしながら。でもこういう出会いが多いのも事実かと。森まゆみさんも、作家が忘れられないためには(亡くなってから)早くに動く(書として刊行)ことが重要~と読んだばかり

亡くなって昨年がちょうど10年だったのだ。時間は経ったのだな(本書は逝去3年後刊・これだけ整理したのだから早い☆)。
河野さん自身によるエッセイを早く読みたくてたまらない。
《そして仁和寺あたり(また京都に)をいつか訪ねたいとたくらんでいる私。》
→《第5回衿賞