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介護用ベッド [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

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【クリスマスローズ再び

家主である母の妹(私の叔母・双方、連れ合いをここ5年で亡くした)が春になって戻り、部屋の模様替え等を積極的に進めている《叔母は家具移動が趣味の域(笑)・母と私は馴染んだママ変えないタイプ》。
数日前、ケアマネジャーに一報し、母にレンタルの介護用ベッドを入れた。それまでの枕位置も、タンスの向きも変更。当然、各所に隠れていた埃たち(汗)も拭い取るよい機会となった。
今後は、父の介護保険で付けた手すりのさらなる増設も必要になってくるだろう。長く自立歩行をして欲しいが、車イス導入は早く来るかもしれない。

その後の母の介護判定だが、再判定結果は「介護3」になりそう…とのこと(ケアマネジャーさんより:まだ証書が届くまで本決定ではないが)。当初の「要支援2」からのこの差は?? 今年に入ってから急速に衰えている状況を考慮ということか。
もっとはっきりとあたたかくなって体調が上向きになればよいのだが(高齢者に冬の寒さはこたえる)、そういう問題では既にないのかも。これからいろいろとわかってくる。

ところで、介護認定に必要な診察をするかかりつけ医は、身体状況のほか認知症の検査も行う。
よく聞く「何歳ですか?」「きょうは何年何月何日?」「100から順に7を引いていって」のほか、「野菜の名前をたくさん言ってください」があった。
そばにいた私、母は『その男性医師が思いつくより間違いなく多く答えられているわ』だった・笑。
食べ物や植物の名は、女の人の方がよく知っているわねぇ。
…今は日常の基本はわかっているようですが、ボヤボヤの時間帯も確かに出てきております。

ペコロスの母の贈り物&ペコロスの母の忘れもの&続・ペコロスの母に会いに行く [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

ペコロスの母の贈り物

ペコロスの母の贈り物

  • 作者: 岡野雄一
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2016/01/20
  • メディア: 単行本


ペコロスの母の忘れもの

ペコロスの母の忘れもの

  • 作者: 岡野 雄一
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2018/02/28
  • メディア: Kindle版


続・ペコロスの母に会いに行く

続・ペコロスの母に会いに行く

  • 作者: 岡野雄一
  • 出版社/メーカー: 西日本新聞社
  • 発売日: 2019/04/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

7年ぶりにペコロスさんがお母さまのことを描いた作品を。3冊まとめて。
概要は十分把握しているのですが、また重ねてエピソードを拝見すると(見やすい大きめの漫画です)、すべてが何度読んでもずしんとくるノンフィクションなのです。
当時の現実は、酒癖の悪さや妻への暴力が絶えなかった父親の姿に子も苦しみ、のちに連れ合いを亡くしてまもなく認知症を発症した母親の介護~はきれいごとではないわけですが、おそらくどなたが目を通しても伝わってくるものがあります。どれでも最低一冊はみなさまどうぞ~という気持ちです。

…著者のお母さまは、息子の意志で胃ろうを選択し、一年半後に入所施設で亡くなりました。
「胃ろう」にはさまざまな意見がありますが、どんな形でも長く生きてもらいたい…の判断だったとあります《私の友人A子も胃ろうした母親を何年も介護施設に見舞っています》。あたたかかった肉体が徐々にそうでなくなっていく過程をかみしめてゆっくりと送ることができたと。

我が家においては、亡父の特養入所の際には「胃ろうは希望しない」と記入し、自然な看取りまでをお願いしておりました。本人が苦しむ延命措置は避ける、で意見は揃っていました。
しかし、施設のかかりつけ医に小康状態の連絡をもらった際は、その時点であらためて最終確認され、母の強い希望で救急搬送してもらい、半日後に病室で息を引き取る形となりました(いずれにせよ数時間後に死亡でした・もちろん胃ろうなどという段階ではなく)。

母親自身は、やっぱり胃ろうは望まないと思います。
「私」自身の将来も、無理な手当は極力せず~を希望します。
難しいところですね。現実となれば、他の血縁の願いもありますし《私は2人姉妹で、出戻って両親と長く同居してきた・他県に住む妹夫婦はおそらく私の判断に従うと想像しますが》。

時々考えます。やっぱり自分のことが自分でちゃんと管理できている間に一生を終えたいものだと。
一時、橋田壽賀子さんが「安楽死」(尊厳死)の是非を提言していましたが、私は最後までの命のまっとうを思う一方、橋田さんの方へより傾くこの頃です。

最終判定は予想外だった [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

母の介護度判定、仮判定で出ていた「要介護1」でなく、最終は「要支援2」と出ました☆
ケアマネジャーさんにいち早く知らせが入り、『「要介護2」と一瞬思いました!』と告げられました・笑。
前述の通り、母が既に利用を始めている介護施設に常勤のケアマネさんなので、通所中の母の身体状況はプロとしてわかってくださっています《到着すると「歩行器」を使わせてもらっている母デス》。→間髪置かず「再判定申請をしましょう」ということに。

実際より軽い判定ということは、先方に介護の手数に見合わない利用料しか落ちないことになります。
…利用側のこちらとしては、介護保険を使用して~の上での大差はそれほどないと思われますが、相当するお金が正しく動くことがもっともなわけで。

私が一番心配したのは、既に開始しているデイサービス使用の継続です。これはOKなことがわかりました。ホッ、です。
「支援」「介護」のサービスの違いは、例えばデイサービスで言うと《以下、多少地域の差はあるのかも!?・ご参考までに》、前者は「月単位で発生」、後者は「一回ずつ発生」です。
「支援」でサービスを使うなら、月にたった一回でも固定の費用に~、ということ。
また、「支援」の方が職員の手をわずらわせないハズなので単価費用は低いのですが、重度でないと判定され、月内で使えるサービス量は狭まります。介護度が高くなれば、例えば週に4日のデイサービス利用が可能ですが、母の今の判定では、最高「週2」利用までとなります《今の時点では我が家は「週1」希望なので差し支えありませんが》。

その他いろいろ、今後必要になってくるだろう介護用品(簡単な手すりの利用、レンタル介護ベッド等)についても、「要介護」の判定が有効&妥当なのは間違いないでしょう。

ということで、近日中に前回とは別の判定員さんを迎えて再判定(仕切り直し!)です。予定があえば、ケアマネジャーさんも同席する意向でより万全に・笑。
→それでも「要支援」に落ち着くのかもしれませんが♪

「認知症の症状がある」「徘徊がある」がより大変で、数が多くなっている世の現状と思います。一方で、日常の室内で転んでしまう場面が日に日に多くなる見守りも進行形です(筋力の下降が激しい)。
《父と母の介護が同時に来なかったことは幸いだったと思います。このズレがないとどの家族も本当にしんどい…》

母もデイサービス利用を開始 [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

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【昨日朝、ゴミ捨て帰りの雪道・たいした降雪でなくてよかった♪…またきょうは粉雪が降っているが!!】

5年半前の移住後まもなく、デイサービス利用を始めたのは今は亡き父(当時は「要介護3」判定・1~5があり数字が大きいほど重度です)でした。在宅時は母が主に老々介護し、週2~3のデイサービスから始まり、ショートステイ(お泊まり)も時々利用、その後(「要介護5」に)、特別養護老人ホームの空きの連絡を受け、約半年間お世話になりました。

このたび、母のひとり入浴の安全性はナシ~と判断(5分ごとの浴室の見守り・娘Ayuのフォローもあり、私ひとりで2名を見張るのは難しい時も)。
入浴サービスのみ受けられれば…でしたが、それならばそれが組み込まれている、父が当時お世話になった近隣の施設のデイサービスを受けよう☆と、一択でした。

《経過》
1月下旬:介護保険によるサービスを受ける手はず(「地域包括センター」へまずは電話連絡)・父での経験で概ね利用方法はわかっており、こちらの希望を早めに伝えられた

2月初旬:介護判定員の訪問《最終判定度数が明記された正式証書が届くのは1カ月半先くらい》・かかりつけDr.に申請にあたっての診察をしてもらう(それ専門の質問事項多し)・ケアマネジャー訪問(父が最期までお世話になった施設所属・父の時と同じ方がまた担当) 

2月中旬:デイサービス担当者とケアマネジャー2名が訪問、デイサービスの契約を済ませる・デイサービス利用にあたり、負担軽減制度が使えるか高齢者介護課にTELで相談、すぐに該当書類を送付してもらえた・希望曜日(まずは週1)でのデイサービス開始(9~15時)
【まだ正式な介護度は確定していないが、必要度は高く、早急にサービスは始めてもらった・仮判定は「要介護1」とのこと←「要支援1・2」の軽度判定でないことは確か】

「介護保険によるサービスを利用したい」と申し出てから、ちょうど1カ月後にはサービス開始~となったので、早く進んだ方と思います(その間にも介護度が進んでいる実感あり…)。 

上記に書いた「負担軽減制度」は、どの市町村でも「介護保険のしおり」なるものがあるはずで、その巻末あたりにきっとこの解説があります。
私のところは、負担軽減には2種あります(①本人の年金が80万以下、②非課税世帯で預貯金が一定額以下等)。諸手続きをとり、認められれば毎月の利用額がいくぶん抑えられます(②の場合、通帳コピーなども要・①と②の重複利用は不可)。

以前お伝えしましたが、同じ住所に住民票を置く同居でも、親と子の世帯は別にしており介護保険利用料を抑える~は、世間の常識と思われます《もちろん扶養にして親子同世帯、で通したいなら別ですが》。
親が自らの年金内で実際に暮らせているのであれば、別世帯にしていた方が好都合なケースが大半~が今の私の感覚です。
ですので、別世帯の子どもらの財産を申告する(要求される)ことはありません(現に、母は自分でデイサービス代を支払えます)。 

《但し、有料老人ホームに入居するような¥は我が家にはもちろんありません・どの種類の介護サービス(デイサービス、ショートステイ、入所等・できれば担当のケアマネジャーも)を利用するとしても、私がお勧めするのは『特別養護老人ホーム』に属するところから受けるのが、後々も費用は一番良心的なハズ&将来的に入居希望も通りやすいのでは、です・民間色が強くなるほど何事にもプラスで料金がかかるといいます。》
以上、ご参考までに。  

また追々、利用後のいろいろを書いていきます(父と違い、まだ頭は回っている母なので体験しての感想は聞ける!!)。    

親が子どもになるころに てんてん、介護問題に直面す [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

親が子どもになるころに: てんてん、介護問題に直面す

親が子どもになるころに: てんてん、介護問題に直面す

  • 作者: 細川 貂々
  • 出版社/メーカー: 創元社
  • 発売日: 2022/06/16
  • メディア: 単行本

貂々さんは、今までに何冊も手にしています。
これは、予約の本を借りにいった際、新刊図書(昨年6月刊行ですが…笑)のブックトラックに偶然見つけました。サブタイトルまで確認しないと、一見、介護関連の図書(コミック)とわからない本タイトルですね。

てんてんさん《1969年生まれ》の父親、そしてツレさんのご両親(てんてんさん夫妻はお互いひとりっ子)。…子どもが年を重ねていくということは、親の介護問題もひたひたと現実味を帯びてきます。

てんてんさんのお母さまが亡くなった時、お父さまは68歳。その後もひとり暮らしを続け、家の中もきれい☆ 自動車整備士として78歳まで働きました。ところが、手術後はコロナ禍に阻まれ、しばらくぶりに訪ねると冷蔵庫の中からはくさったにおいが~。幻聴や、妄想症状も出てきました。
頭ではわかっているが、さすがのてんてんさんも腹立たしさが伴い(あたり前のこと)、こらえます。

ツレさんのご両親。お母さまがお父さまを見守るのが大変になり、お父さまが入所。荷をおろし、自由な時間を得て生き返った心持ちのお母さまでしたが、その後「私が面倒をみていかなくては」との強い希望で、夫婦ふたりで暮らせる施設に入所しました。

いずれもご本人たちの財産的余裕があったと思われます。もっとも費用がかからない「特養」ではありません。待機時間はそれほど長くなく、恵まれていたといえるでしょう。

しかし! 具体的な症状は省きますが、介護もその人によっていろいろ~です。
私の父の場合は、足腰が弱くなり、認知機能がたよりなくなり…の人の老化そのものの辿り方でした。元気な肉体を持ち&つじつまのない事柄にこだわったり、話したりするという症状ではありませんでした。後者、寝たきりの介護とはまた違った周囲の苦労があります。「闘い」ともいえるでしょう。

てんてんさんが最終的にこれからのみなさんに主張していたこと。
本人たち(親)は(まさか)社会についていけなくなる自分を想像できなかった。そしてそうなった時どうしたらいいかも知識として知らなかった。なので、家族で話し合っておくことをオススメするのは、以下。
お金の管理について」「家事を他人に任せていくこと」「車や仕事など衰えたらできないことを断念していく」】

今は、多くの人が親と別々に暮らしています《我が家にしても私が家庭生活を維持していたら(笑)同居していなかっただろう》。いきなり自分たちが直接面倒をみる生活に移ることは現実的でない。親たちだけの生活で、早めに適切な介護判定を受けたり、介護サービスを積極的に使っていく術を、当事者たちは細かくわかっていませんし、目を背けがちです(周知させる社会のしくみも必要!)。
先立つは、やっぱり「お金」。持っていても、うまく有効的に使っていけるか(「騙される」いろいろも世の中にはびこっています!)は、大変ですが遠く離れた子どもの一番の出番かもしれません。肉体的にも精神的にもまだお元気な状態のご両親から、希望や財産状況(いくら年金をもらっているかも重要)を聞いておくこと。

てんてんさんの目線で、ホーム生活に導くまでの紆余曲折を描いています。これも一例に過ぎないわけですが、手にとってよい一冊と思いました♪

最期まで在宅おひとりさまで機嫌よく [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

最期まで在宅おひとりさまで機嫌よく (単行本)

最期まで在宅おひとりさまで機嫌よく (単行本)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2022/06/09
  • メディア: 単行本

上野さんがこの10年間に10人と対談した「おひとりさまの生き方」。『婦人公論』連載を中心に加筆修正。これもなかなか読ませた。
澤地久枝、橋田壽賀子、桐島洋子、稲垣えみ子、香山リカ、荻原博子などと語り合う。

【(上野)~やるだけのことをやったから命に未練がない。橋田さんも澤地さんと同じく戦中派なので「命は拾いもの」感がおありです。~もう十分に生きたと~。】
その後、橋田さんは急性リンパ腫と診断、入院しましたが、ご本人の希望で熱海の自宅に戻り、仲間に囲まれて最期を迎えたとありました。享年95歳。

【(上野)~私は人生の撤退戦の最中ですからね。物欲もなくなって(略)人はわずかなもので過ごせるのものだと、しみじみ感じています。】

【(桐島)人生、持ち回りですからね。それが、家族だと思います。】
「子どもの世話にはなりたくない」「迷惑をかけたくない」という高齢者が多い中、桐島さんも上野さんも老後は子どもにほどほどの迷惑をかけてよい、というスタンスです。
【(上野)私は基本、在宅派です。介護保険のおかげで、家にケアに来てもらうという選択肢ができましたから、家から出ていく理由は何もないと思っています。】

稲垣さんのお母さまは認知症になって3年後にお風呂で溺れ、退院することなく80歳で亡くなったとのこと。ご自身の既刊に詳しく触れていなかった部分と思う。
【(稲垣)やりたいことを諦めず(略)ではなく、やりたいこと、欲を徐々に少なくして、下り坂であっても何とか前向きに下りていきたいなって。】
【(上野)~ヘルパーさんから「ここ(某施設)にはお年寄りの徘徊はありません。お散歩があるだけです」と聞きました。周囲が見守っているんです。】

上野さんのご自身の備えはすごい。さすが。
→専門医に行き、MRIの画像を撮って脳の状態をカルテに残し、平常の状態を把握。訪問医、訪問看護ステーション、訪問介護事業所と相談し「おひとりさまプラン」という商品を作ってもらった。年間契約で定額を払い、自宅の様子を見てもらえ、鍵も預けている。遺言執行人も指名~。

「老後」がいつ始まるか。それは、自分の親が死んだ時です。~親を看取るという大仕事をしないと、自分の次のことは考えられない。そういう人も、少なくないと思います。】

【おひとりさまライフのセキュリティとセーフティネットを考えるなら、自宅の合鍵を預ける人間関係を作っておくべきです。~(財産持ちというより)ぜひ「人持ち」になっていただきたい。】

【~ひとり暮らしは「不便だけど不幸ではない」。不便は解消できます。自分で料理ができなくなれば、配食サービスを利用すればいい。~自宅で暮らしていれば、ストレスがない分、「機嫌よく」過ごせるんですね。】

なんとしても介護保険制度を守らなくてはいけません、と。
「介護保険の後退を絶対にゆるさない!」が上野さんの叫びだそうです。

…私自身も一昨年に見送った父は介護保険なしでは過ごせませんでした。特に、お互い高齢となった連れあいによる「老々介護」の負担を軽くする意味も大きいと思います。

最後は女性がおひとりさまとなる確率が高い。でも元気なうちに上野さんのように完璧な準備を済ませられる方はごく一部かと。
それにしても「自宅で最期まで暮らせる方法がありますよ~!」を今後も示してくれるのは大変ありがたいし、心強いことです☆

二人の親を見送って by岸本葉子さん [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

二人の親を見送って (中公文庫)

二人の親を見送って (中公文庫)

  • 作者: 岸本 葉子
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2019/03/20
  • メディア: 文庫

岸本葉子さん。私が手にしたのは2015年刊行の単行本の方。
タイトルから「介護~」カテゴリーに入れましたが、方々に連載されたエッセイを収録したもので、親関係以外も含まれていました。

【(親と)併行して自分も年をとっていることを、リアルに感じる。長寿の時代、親の介護や看取りは自らの加齢を意識する時期と重なる。】
【二人の親を見送った後に来るのは、この世で再び会うことはないという紛れなき事実、精神的な後ろだてを失ったのに似た寄る辺なさ、そしてある種の身軽さだ。~(略)親亡き後の人生ははじまったばかりだ。】
双親とも既に見送った私の友から「ほっとした」というナマの声を聞いたことがある。それもまぎれもない本音なのだと思う。

【父親を90歳で見送った。最後の最後は入院したが、それまで在宅で介護していた。】
岸本さんちのきょうだいで交代しての介護については、既に読んだ
このようにほぼ最期まで、親族間のみで見守ったケースの方がまれであろう。ご本人の意志が確認できた上で在宅を希望されるのなら、私もそれが家族共に一番幸せと思う
だが肉体的、精神的負担が大きくあり、認知症が伴うなど限界を感じるならプロの介護を受け、それぞれの今の人生を前向きに考えるべき。
「どのような形をとったにせよ、終えてみればああすればよかったという後悔は残る」と著者は書いています。

《…話はそれます。少子化が話題になる昨今ですが、私は「晩婚の増加による介護の若年化」も今後、深刻と考えます。ひとりっ子が多い中、20~30代という若さで親の高齢化と直面します。》

【最近ではシニアの人から「うちでお正月準備をするのもたいへんだから、旅館でゆっくりすることにした」と聞いては、「なるほどそういう方法もあるな。私もいつか」と思っていた。が、いざ、娘としての役割を免除されても~(予約をするとか)行動を起こそうとしないのが、われながら意外だ。】
ああ、私も同じくツアーのひとり参加者から「年越しは毎回ここと宿を決めている」と聞いたことがある。確かにパンフレットにはお高めのそんなコースが目立つ。
でも私の中では、揃ってTVを見ながらきままに自宅で~の形を、いつまでも年末年始の定番としたい気がする。

エンディングノートについても。私、全然、記入していない。あら、10年以上白紙のままだ(苦笑)。
著者は松の内につけているそうだ(更新、しているということですネ)。今が記入時期かも!

おわりに、より。
【父の家との行き来がなくなり、それに要した時間と体力を他に向けていいはずなのに、すぐには動き出さないで、亡き者たちの気配にじっと耳を傾けていた。】
そんなものだろう。それぞれのペースで動き始めれば、いい。
ただ、ひきずられるままに余力を全部持っていかれることは、見送られた側もけっして望んでいないと思う。

上野先生、勝手に死なれちゃ困ります 僕らの介護不安に答えてください [我が家の介護いろいろ&認知症関連]


「よんでみました」ですが、このカテゴリーに入れました。
説明するまでもないおふたり。1948年生まれの上野千鶴子さんと、1985年生まれの古市憲寿さんが会話。もっと早く読むつもりでしたが、元旦のラジオでの上野さんの出演もあり(おもしろかった!)、ようやく読破(後半はさーっと急ぎ読みでしたが)。

双方とも歯に衣着せぬ話しぶり、気持ちよい。
私は父を通じて介護保険を利用した経験があったからこそ頷けた内容だったと思います。そのしくみの変遷、そしてこれからの若者問題まで及んでいました。

【古市:(親の老いについて)ふとした瞬間に昔に比べて老けたなあ、って感じることが多くなったんです。~話すスピードが遅くなったとか、携帯の使い方がいまいち理解できていない、とか~「昔はそれくらいできたよね」ということが徐々にできなくなっている。】

【上野:老化にともなう病気って、治っても元どおりにはならないのよ。慢性疾患になって、低位で安定するってこと。障害残して生き残っちゃうのよ。長寿化ってそういうことだから。誰もが中途障害者になるのよ。】

【上野:~死因の中でどれが一番いいかっていうと、意外かもしれないけれど、ガン死ね。ガン死は死の直前まで活動性が高く、意識は明晰で、寝たきり状態が短期間。つまり一番つらいところは短期決戦ですむ。】
肉体が徐々に衰えて(認知が伴うこと大)迎える死より、それは本人の望む形になるのかも。そう考えると、無理な手術や治療を選ばない上での、受け入れたガン死も悪くないと知りました。

【上野:~かつて強かった親が気弱になって、「すまないね」「ありがとう」をくり返すのに耐えられない、という子どももいる。】
私、母に対してはまさにこれなのです。衰えを情けなく思い(高齢だからしょうがないのに)、負に巻き込んでくる母が許せない。年相応を受容して少しは明るく展望できないのかと
頭ではわかっているのですが。

【上野:(介護保険は)1997年に国会で成立し、2000年に施行されました。】

【上野:~それ(在宅自然死)を支えようとする医療者がいる。~患者に急変が起きても、119番するより前に、在宅医に連絡するという合意を家族から取り付けてる。~(119番をしたら)もう延命措置が自動的に始まっちゃうからね。】

【上野:~私の世代には非婚おひとりさまは2%ぐらいだけど、後続部隊がぞくぞく増えた。それだけじゃなくて、既婚者もやがて離別や死別でおひとりさまになっていくという予想があるからこそ、おひとりさまのライフスタイルが徐々に支持を得ていっている。】

あとがきに代えて。上野さん。
【わたしは子どもを産みませんでしたが、教師として多くの若者と接してきました。~】

例のラジオでは、たびたび伊藤比呂美さんも『教えてきた学生たちは、私の子どもよ』と言っている。
本題とはズレるが、(実子がいたとしても)教育してきた学生は次の世代を継ぐ自分の子どもたち~には違いないということよね。

年齢の大きく違う者同士が、質問して、説明して、遠慮なくバトルする。
予想以上に私には濃い本でした《2011年刊なのでまた最新の対談をみたいものです》。

早めに父を偲ぶ [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

父が亡くなってまもなく一年(正確には11カ月)。来月はもう《凍結危ない月間》に突入しますので(私も仕事あり)、この秋のうちに妹夫婦がいつもの義弟の運転で寄ってくれました。
法要など特別なことはせず、妹が持ってきてくれた父の好物(柿、袋入り『チェルシー』・笑)を供え、みなで団らんの日☆(Ayuも作業所は休む)でした。
お父さん、みんな元気ですよー。親元から離れた東京の姪2人も、それぞれにしっかりやっています♪

【新潟米『新之助』をもらう】
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父の続き⑤ 最終回 [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

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【おとといも降った・今年はまだウグイスが啼かない】

先月末、重い腰を上げて、母の部屋で父の衣類等を整理しました。厚手のズボン下など、母が防寒用に着られるものは既に使用しています。

さて、事務用事では「父名義のガラケー」、がありました(ここ数年は母が所持)。ケータイ会社に死亡事項がすぐに伝わることはないと思いましたが、早めにスルッと変更しておいた方がよい(死亡とわかれば謄本等、必要となる書類が出てくる)と判断。
《よくあるのは「死亡したのにそのまま料金が引き落とされ続けていた」という、むしろ身内からの申し出が遅れて…というケースのよう。》

年内に、その番号のまま、Ayu名義に変更しました(ババもいずれ危ないカモ)。同じ名字で同じ住所(下参考)、同じコースでそのまま使用~とのことで、本人を連れて行き(引き落としは私の口座からまとめて…なのですが、なぜか娘名義の通帳の表紙提示だけは要でした)、無事済みました。
つまり、料金さえ払い続けてくれれば、あちらとしては名義はあまり問題ではない気もしました。
《但し、父のケータイは近頃の3G終了に伴い、昨年に新しいガラケー機種に変更しており、名義変更したことで、少々ですが数カ月続くはずの割引サービスがそこでSTOPしました(あとで規約にあたって気づいた)。》

さて、昨夏に特別養護老人ホーム(特養)に入居した父、その際は「現住所をホームにする」ことの説明を受けました。ですが、同じ町内でもありますし、娘の私が父宛ての郵便物の処理はできることもあり、変更しませんでした。
(「そういう方も数人おられます」と先方。…不安もあり、アルバイト仲間&人生の先輩に尋ねたところ「うちの伯母も最期まで変えなかったよ」の助言もあり、通しました。)
我が家はそれでよかったのだと思います。父宛ての開封をすべておまかせするのは「?」もありました。
【住所変更したのなら、面倒な各種更新手続きまでしてくださった?のだと思います・でもやれるのでしたら、住む場所は実質離れても、家族として面倒をみられる場面は残してよいのではと考えます☆(把握する、という意味でも)】

亡くなった後、父の「おくすり手帳」が手元に戻ってきました。同居している頃は、私と母がお医者には必ず付き添っていたので、どんな薬をどれだけ処方されているか、それまでは納得した上でいただいていたわけです。入居前から、そのホームのかかりつけ医にお世話にはなっていましたが、あらたに私の知らない貼り薬の名前を見つけ、「ああ、入居するということは、お医者さんの診断と一存で処方されていくのだな」とも強く感じました。
『家族の日常のお世話をお願いする→すべておまかせする』(もちろん「インフルエンザ接種」などは、毎回家族の了解書類は求められます!)ということなのだと《何度も繰り返していますが・苦笑》。

火葬当日のこと。年末寒波で雪となり、足をとられないような武装が第一なため、スカートの喪服は着られず、黒のズボン、防寒はグレーのダウンジャケットに頼りました(こういう色の服は普段から持っておくことが必要と痛感)。
というわけで、寒さ必須の地ですので、この経験よりパンツスーツの黒服セットを、ごく最近持ちました。すそ上げをお願いし、後日受け取りに行った日、ご近所のお通夜で間髪置かず着ることに…

遡って、父を亡くした当日の夜のこと。私のガラホに10分とあけずに2通のメール。
1つはAyuが東京時代にお世話になった作業所職員さん、もう一人はお互い子が支援学校等で同級だったIさん。年に一回連絡があるかどうか~の方たち。どちらも私の母も交えてのお付き合いでした。仲間を呼んだのでしょうか。
ラジオ『東京ポッド許可局』の鹿島さん式に言えば、スピってますかね??(わかる人だけ:笑)

長くなりましたが、これで一応、記録は終わります
父を亡くして、人の死がより近くなりました。想像では難しい、これは経験してみないとわからない。
そして、人生は思い残すことのないよう、やりたいことはできる限り元気なうちに(できれば60代までかな?)やりたいと思うのでした。

父の続き④ [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

前回は、さまざまな自動引き落としは、高齢な家長→次の世代(その後長く生きるだろう方)に切り替えておくと後々都合がよい…と書きました。

我が家族(当時:父・母・衿・Ayu)は、東京時代より、そして移住後も既にいろいろな場面で私名義にしておりました《「振込用紙」利用もあり・母はこの支払い方法が実感あり(←大切なこと!)で好んでいます》。
また、両親の口座に関しては、元気な頃の父より、『生活費は父(自分)の通帳から・余裕分は母(妻)の口座に貯金』と命ぜられていました(ある時から私がおろしてくる係に)。つまりは、父の口座はいつもギリギリ最低限の残金のみ。父の介護関係の引き落としは、母の口座を指定していました(←ですので、亡くなったあともそのまま最終利用料まで問題なし)。

その後の父のゆうちょ銀行(我が親はこれのみ)の、よく言われる「口座凍結」ですが、百万単位など大きな額が残っていなければ相続的な問題はなし。年内のまだ硬貨引き落としに手数料がかからないうちに(笑!)残額0円にしておきました。年金関係の届け出も済ませていましたし、このままでOKと思いましたが、別件で郵便窓口に父の逝去が伝わったこともあり、正直にどうしたらよいか尋ねました(地方の小さな局で親切☆)。口座が存在しているとお知らせ等々が永遠にあったりするので解約しておくのがベストと。簡単な書式記入で無事済み、スッキリいたしました。

前後しますが、親と同居でも「世帯は別」(同住所でOK)にしておくことは既に世間の常識、でしょうか(でしょうね)。私はAyuが幼少時に2人で実家に戻ってきた際、両親と世帯は別々にしていこうと決め、そのままに至っています。それで正解でした《事実、生活費はそれぞれで分担♪》。
同居でも親と子で世帯が違っていたら、別々ととらえられます。親が介護保険サービスの利用者となった場合、つまり、子どもの財産は関係ないので、親自身の収入等のみから算定され、費用(負担の段階がある)が決まることになります。
《例:当時、田舎の従妹夫婦は母親(私の叔母)と同居しており、世帯を一緒にしていましたが、介護保険利用にあたり、ケアマネジャーさんなどから助言(テクニックね)をいただき、世帯を別にしたと聞きました。》

さて、死亡届を提出後、その除籍が明記された謄本を取り寄せます。諸手続きで多々、登場となります。本籍地の役所に、定額小為替と返信用封筒を入れて~ですね。今はネット検索で、所定の用紙も出力できますので便利な時代ですねー。
取り寄せた謄本などは、その場で提出が必要でも「戻して欲しい」とお願いすれば、先方は必要なコピーをするなどして返してくれます。そうすれば、原本は元に戻るので、同じように次の手続きでも使えます☆
…というわけで、複数の原本(私の戸籍謄本も別件で要だった)、今は自分の手元に残っています。

しかし、死亡届や死亡診断書、その他いろいろ、おうちコピーの出番は多く、7年以上前に購入したシンプルなプリンターのコピー機能は大活躍でありました♪

まだちょこちょこと続きます

父の続き③ [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

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【雪見の家ネコ】

先日、父を亡くした一両日のことを書きましたが《あとからわかりやすいようにカテゴリー「我が家の介護いろいろ~」に入れました》、残務処理いろいろ~を記録します。
【実は既に忘れかけています…それほど多岐でテクニック要☆】

それは、細々と50日以上過ぎても続いています…(急ぎ分はもちろん済み・財産持ちでなくても大変デス)。
親が高齢になったら、目をそらさず心がけておけばのちのち慌てることなく、近い将来(それも現実)の煩雑さから少しは開放されます。それらの対策&感ずるところを記していきます。

永峰英太郎さんのこの本にヒントはありました。まだまだ先のこと~と後回ししていた私ですが、みなさんも同様に突然そういう日を迎えると思われます。
それでも、その前にこれを読んでおいてよかったのはたしか、でした!!

以下、父を亡くした直後より。
病院の霊安室から出た父と、その車を追っかける形で葬儀ホールに着き、父を安置してもらい《このまま広い部屋に数日》、その後すぐ担当者と葬儀の打ち合わせを小一時間。
公の手続きについての雛形の提示あり。非日常&おつかれモードの遺族には参考(手助け)になります。

医師から発行された死亡届に必要項目を記入し(死亡者の本籍&届け出者の本籍記入欄あり・地方の難しい住所表記には要注意です:私、漢字の訂正を求められました~・汗)、最寄りの役場に提出《そこで料金を払い、火葬許可証が発行←後日、葬儀社に預ける重要書類》します。

前述の本に紹介されている『死亡に伴う手続き一覧』が、より早く手元にあると今後の予定が立ちやすそう。私は死亡届の提出前に【←なにせ家で落ち着いて書かねばならない正式書類・その後も原本コピーは何度も出番があります!】、そういうものがあったらいただけますか、と窓口を訪ねました。
本来は「死亡届」が出されてから配られるもののようで、一瞬けげんな顔をされました。が、ひと足先に無事Get(市民自身の便がよいよう意志は伝えていきましょう☆)。
公共&金融機関の年末年始休みが控えていたこともあり、時は金なり=スピードは必要でした《まっ、「急がなくても年始になってからで大丈夫ですよ」もありましたが、いずれにせよ自分がやらなくてはならない事務処理、トントンと済ませていきたいですよね♪》。

「何度も足を運んだり、同じ書類をまた請求したり…」が、この一覧により早めに対策を練れ、私は心が落ち着きました(それでもあとから「あーすればよかった…」が発生する・涙)。
できれば家族(近くにいるきょうだい等)と分担できると心強いのですが、私はひとりで済まさねばならず(何度も車を出すことは、留守を守る家族を思うと極力減らす必要があった・家人に精神的落ち込みの心配もある・私自身は用事に追われてうまく紛れていたのかも)。

同じく昨年父親を亡くした友人の経験談を。とても仲のよい男女きょうだい3人でも、結局娘の自分が正規の仕事を持ちながらも方々に通い、孤軍奮闘することになったそう。細かいことは女性の方が得意、もある!?
まぁ結果、ひとりが1つずつ処理していった方が全体の把握はしやすいのかもしれませんが。
…そして私の場合、葬儀社はここにしよう、がなんとなく決まっており、病院のおすすめに乗ることもなく、比較的スムーズに進んだわけですが、彼女は亡き骸をそばにしながら葬儀社をどこにするかで(現実はなるだけ早い遺体の引き取り…が発生します)、2時間以上きょうだい全員が右往左往の問い合わせで終わったそう。
お父さまに手を合わせたり、悲しむ時間は一切つくれなかったと。
私たち家族はそれに比べると落ち着いて、父が横に居ることを感じながら過ごせました。
葬儀の進行は大切なことではありますが、家族との最期の時間をとられては故人も浮かばれないですよね。

と、また長くなりましたが、全然!本題に入れてはいないので、また追って書き残します。

「父の続き③」としての整理。
→亡くなることが前提ではなく、あくまで自然な代替わりと考え、同居であればそろそろ家の代表者《世帯は別のままでOK・「同居でも世帯は別々がベスト」に関してはまたあらためましては父親から子である自分(息子であっても娘であっても・「妻」も高齢でしょうから「子」がよい)に、スライドしておくとよいよー、です。余裕のある時に。
それでもなかなか前もっては難しい、もあるでしょう。いずれもその後に対応すれば(面倒くさいの山ですが~)問題はありません。
が、例えばどこかで昨今のペーパレス化など切り替え時期が訪れたなら(振込用紙処理から口座引き落としに変更等)、若い世代に名義&口座を変更しておく! とあとあと楽です。

まだ続きます。記憶はたよりなくなる一方…できるだけ忘れないうちに。

父の続き② [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

《つづき》
臨終後、私は方々に連絡を入れつつ、病室では1時間余りで父の仕度を整えてくださいました。
「ご家族、どうぞ」で、数分父に話しかけつつ、亡くなった時に着ていた衣類を袋にしまい、一時私も帰宅。
霊安室には数時間しかいられないということで、早朝に業者に連絡(24時間体制)。午前10時半には病院へ車が手配され、私も一瞬、地下の霊安室を出た父と共にその黒塗りの車に乗り、運転手さんに私の車を止めた駐車場まで行ってもらい、私が追いかける形で葬儀ホールまで。

家に父は帰りませんでした。3年半前の移住当初は若干歩けたものの、既に介護生活はスタートしていた父、ご近所との面識はなく、万一の時はお知らせはせず、家族だけで送り出すことに決めておりました。ホールの安置所(思っていたよりずっと広いお部屋☆)で最期の数日は過ごしてもらいました。

ここ数年、父方関係では不幸が続き(そういう年代・ショックを避けるため父にきょうだいの死を告げられないこともあった→いつのまにかそれを伝えてもわからない時期に突入していきました)、遠方もあり、お互い離れたままでのお悔やみが通例となっておりました。
私たち3人と、妹夫婦(姪たちはひと月前に父に会ってくれていました)でこじんまりと、自分たちの中でしっかりと送ることができました。

寒波到来、大雪注意報発令の日で、火葬場から直接、他県の妹たちは帰途へ。
前泊してもらったのですが、夕飯は何にしよう?と一瞬考え、決めました☆
父は元気な頃、よくお好み焼きを作ってくれました。私がキャベツを切るくらいで、あとはお皿に盛るまですべて父《最後は10年前ぐらいだったでしょうか…》。
義弟もおいしい々と食べてくれました(現在の我が家では月に一度くらいで土日の昼食に出てくるMyパターンです)。
そして、そのひと切れを棺に入れました。ラップして(プラスチックはNO!ですがそれくらいはOKだそうです)。あとは私がアルバイト先でいただいてきた、はぶきのリンゴも。妹は上手にメッセージカード(写真入り)を書いてきていました。愛用の帽子を入れる予定でしたが、妹がかぶったら案外似合ったこともあり持ち帰ることに(笑)。

安置していた数日は通い、気になっていたまゆげにハサミを入れ、整えました。爪を切るときと同様に、痛くもないのに毎回やたら怖がる父でしたが、もうそんな反応も不思議に当然ないのでした。
火葬の直前も、熱くないのかなぁ…とつい反射的に思いました。
でも、横には次の別のご家族が控えているのが現実《冬は亡くなる方が多いそうで、父も空きを数日待ちました》。「あっ、熱いよー」なんて、思わず発する間もありませんでした。

以前読んだ本に。
ストレスがかかるのは、一番が「配偶者の死」なのだそうです。まぁ、男性が妻を亡くすことの衝撃の方がより大きそうですが。
「お父さんというお荷物をあなたたちに残すことだけは避けたかった」というのは、母の本当の気持ちなんだろうと思います。

後日談。
家族親戚以外には極力伏せた父の死ですが、先方から言われ、びっくりした! が2件ありました。
1つは、諸手続きに近くの出張所へ出向いたところ、火葬予約の連絡が葬儀社から行っており(公に支払い、許可されるものなので~)、既に手早く書類の用意が出来ていた(待っていた)ことです。
もう1つは、母の薬を薬局にとりに行った際、薬剤師さんから「このたびはお父さま、ご愁傷さまでした」と声をかけられたこと。
父の薬は、入所施設からの指示で毎回こちらで調合、用意されていました。処方が必要なくなった旨の連絡があったのですね。このへんではまず存在しない我が苗字ですし《私の住む集落はナント7割近くが同じ姓→ですので下の名前で呼びます!》、すぐに合致したのでしょう。

長くなりました。私の備忘録の意味合いが強いですが、お読みいただきありがとうございます。
父の見送りについては、こうしておくとよかった、うちの場合はこれでよかった、私が早めに動いた手続きetc…、もう少し書き残せたらと思っております。
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父の続き① [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

前よりつづき》
早朝、施設の主治医から父の血圧降下の連絡があり、「こちらでやれることはやりましたので、あとは救急車を呼ぶかどうかですが…」と告げられました。と言うのも、入所の際の契約(万が一の際の家族の意向、とりきめ)で、『手術は望まない、胃ろうもしない、無理な延命措置はしない』としておりました(つまりは施設で看取りまで)。これにそのまま従えば、この場で時間が経過すれば自然と…でしたので、そのお伺い(確認)もありました。
「母と相談してすぐ折り返します」と。

結果、できる限りのことはしてもらいたい、という母の希望で、Dr.が救急車と行き先の病院の手配+施設の看護師さんの付き添い乗車…で、私と母とAyuがあとから病院へ駆け付けました。
救急担当医と父本人と会えるまで数時間。その間も、看護師さんはずーっと私たちと共に待っていてくださりました。お役目だったのでしょうが、とても心強かったです《入所者の一番現状に詳しい者として》。

「肺炎を起こしています。(レントゲンで)腸をみると、消化されずに残っています。」…人間は夕方にとった食事はその時間にはほぼ空っぽになっている、のだそうです。朝に急変した父、前日の夕食は普通にいただいたわけで。つまりは、人間の生きていく身体的機能が失われている。治療はしますが、手術という段階ではない。遅くとも一週間のうちに…の診断でした。

昼前に入院手続き。また明日以降、面会が許されたら…と帰途へ。
その帰り道、運転中のため気づかずの着信が(私にも母にも)複数あり。「もう一度(危険なので)、病院にお戻りください」と。半分くらいまで来て、そのままとんぼ返りとなりました。

病室に、使い捨ての大仰な装備(エプロン、マスク)をして短時間に一人ずつ(事情を話し、Ayuと私は一緒に)。
その後も危険な状態には変わりなかったので、指示に従って待合室に待機しておりましたが、私以外の2人はさすがにキャパオーバー。
もう気持ち的には十分お別れをしたと考え、夕方ようやく家に戻りました。

いつ呼び出しが来るかわかりません。食べられる時に…と食事を済ませたり等々。病院という守られた場所にいる重篤な父より、イレギュラーな行動に弱い母と娘2人のことの方が気がかりでもありました。

時計が翌日になった頃に一度、病院よりTEL。看護師さん、「あっ、今、持ち直しました…」。で、またしばし私、仮眠。
2時半すぎ。「ご家族の方、いらしてください」。
母に断りを入れ、隣りのAyuを起こさないように。ひとりで。これだけの深夜帯の運転は初めて。「慎重に運転していくので少し時間がかかるかもしれません」と言ったら、若い看護師さん、「はい! とにかく事故らないでいらしてください!」と。

ビームで点灯、対向車がほとんどない時間帯なので思っていたよりストレスなく《ただ、真っ暗闇の中、シカの家族をいくつも目撃し、びっくり》。

「父親はたぶんもう亡くなっている」という意識を持ちながらの運転は、冷静な自分のような、慌てているような妙な心持ちでした。車のラジオは常にNHK‐第一、『ラジオ深夜便』で ♪シクラメンのかほり by布施明 が流れていました。

病室到着。父の横の、機械の波形は「0」表示。「ご家族が到着しました」で、前日とは違う夜勤Dr.の立ち合いの元、死亡時刻確認。
私の到着時間となったわけですが、厳密には少し前のことだったでしょう(←聞いて確かめました。「そうですね」と)。

介護度が進み、施設で暮らすようになって5カ月余り。年の瀬にこのようなことになるとはまったく想像しておりませんでしたが、徐々に身体の機能が終焉に向かっていった、まっとうな最期。86歳が目の前でした【今まで手術や入院の経験はなし・大往生~】。

《もうちょっとつづきます
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ギリギリに喪中になりました [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

きょうはどんど焼きです。
朝は準備、午後は年始の役員引き継ぎ等、夕方はどんど焼き本番。3度に分けて、地域のみなさんと一日親睦の日です【後日UP予定】。

このblogに寄ってくださっている親しい友人たちにも、この場で報告させていただきます。
実は年末に父を亡くしました。前々日には何ということもなく、女3人で入所中の車イスの父と窓ガラス越しの面会が出来ており、まったくの急なことでした。
私は毎晩必ず、ガラホの電源を落とすのですが《本機のお休み~&熟睡尊重主義☆のため》、その日はなぜか忘れておりました。早朝、入所先のDr.から連絡あり。血圧が急降下し、極めて危険な状態と告げられました。
後日につづく

…家族葬の中の家族葬を行い、年末と年始で主たる手続きは済ませました。
そんなことになるとは露知らず、『今年は早めに準備できたゾ!』とはりきって先月20日すぎに年始の挨拶を投函してしまっていた私でした。
お年賀状をくださったみなさま、ありがとうございました。大変嬉しく拝見いたしました。
(そういうわけで、その後の方々にはその旨の寒中見舞いを出させていただきました。)

当初はとり乱した連れ合いの母も、もう大丈夫。家族みな平常運転しております。ご心配なきように。86歳目前の穏やかな最期でした。
私自身、記憶が新しいうちにその数日のことは書き残しておきたいと考えています。
よろしかったらまたおつき合いください。

しばらく経った今、幼い頃に父とセミとりをした場所を思い出しています。
数年前に妹と2人でその地を訪ねられていたことはよかったなーとつくづく思います。
まだしっかりとしていた父に、写真は見せてあげることができました♪
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