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どこでもないところでー河野裕子(かわのゆうこ)エッセイコレクション 3  [河野裕子(かわの・ゆうこ)さんと家族]

どこでもないところで - 河野裕子エッセイ・コレクション*** (河野裕子エッセイ・コレクション 3)

どこでもないところで - 河野裕子エッセイ・コレクション*** (河野裕子エッセイ・コレクション 3)

  • 作者: 河野 裕子
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/10/24
  • メディア: 単行本

エッセイ・コレクション3冊目。最終巻(2011~14年の刊行なのに追いつくのが遅くなりました!)。

【私を作歌に駆り立てて来たもの、それは、どろどろとした根源的ないのちのカオスの原不安めいた衝迫感、今のこの一瞬をおいて無いいのちの燃焼感、といったようなものであり、歌う対象が何であろうが委細かまわないことなのであった。ありていに言えば、意味とか感覚を越えた、何か得体の知れないものに始終衝き動かされて来た、という方が当っているかもしれない。】
【第一歌集(※『森のように獣のように』)には、18歳から25歳までの歌が収めてあるが、この時期は私の人生でも精神的に最も不安定な時期にあたるだろう。当時の私は、揺れやすく、しかもすぐに過剰反応してしまう自分自身の感受性と、どう折合いをつけて一日を暮らすかが一番の問題だった。恋人を得、相聞歌を作ることによって、辛うじて神経のバランスを保っていたようなところがある。】
激しい。情熱的だ。
「濫作、乱作型なのである」「依頼された歌数の10倍の歌を作ることを自分に課している」と。すごい量だ。
私は勝手に、草間彌生さんを思い出した。河野さんも作品を数多く生み出すことによって、心のバランスをとっている方と言えよう。

【わたしの場合、結論から先にいえば、テーマが決まってから歌を作ったということは、これまでの作歌を振り返って考えてみても、ほとんど無いといってよい。そういうことがあって作ったとしても、めったにいい作品にはならないのが常であった。】
テーマを与えられて作ることが多いのだと勝手に思っていた。そうでないということは、本当に詠みたくて生まれてきた歌たちばかりなのだな。

【十代、二十代の頃は、感受性と感覚で世界を受けとめ、歌を作っていた。現在の私は、自分も他者も、少しゆとりを持って眺め、日常の具体性を味わいたいと思っている。】
そういう段階の余生を十分に味わい、詠む時間がもっと欲しかったことだろう。
…この本の中では、自身の若い頃の歌集について多くを述べている。
夫の永田和宏さんも言っています。
《「愛の歌」はいくつになっても作ることができます。しかし「恋の歌」は、ある時期にしか作れないのかもしれないと私は思っています。》

息子・淳さんによるあとがき。
《母のエッセイをまとめた単行本はおそらくこれが最後になるだろう。母の大胆で率直な文章がもう生まれないことを今更ながら寂しく思うのであるが、~》
そうか。このエッセイ3冊は珠玉でした。歌人による随筆は珍しいのだそう。

お勧めは、やはり1冊目
日本語が恋しくなった、家族とのアメリカ生活を中心に綴る。なんと10年前!に読んだのだが、今でもその余韻を思い出せる。
2もよかった。この3は、短歌について多く書かれており(正岡子規についてなども)、どちらかといえば河野さんの人生に興味が大きい私は、その部分についてはふわっと目を通した。

先日のTVで淳さんが話していた「幼い頃の道草での矢印」のエピソードもあった。
子どもの発見とかしぐさを等身大で感じとろうとするところがいい。
歌人はそういう感受性を持ち合わせているものなのか。河野さん、だからかな。

しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ
私の好きな句の1つですが、今回は「伴侶を歌った歌」として紹介されていました。!?
まぁ、誰を想って詠んだかは突き詰めなくてよいですよね。
永田さんも「どう解釈されるかは読者に任せる」と言っています。本当に言いたいことは言わない、で想像の遊びをしてもらうのでしたね~☆