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父の生きる by伊藤比呂美 [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

父の生きる (光文社文庫)

父の生きる (光文社文庫)

  • 作者: 伊藤 比呂美
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2016/06/09
  • メディア: 文庫

私は6紙の書評をチェックする仕事を担当していて、そこで存在を知りました。
1955年生まれの詩人・伊藤比呂美さんは現在ではカリフォルニア在住(あちらの方と再婚)。Ayuが赤ちゃんの頃、衿がよみあさった育児本の1つが「良いおっぱい悪いおっぱい」(1985年刊・Ayuは92年生まれ)でした。インパクト大。育児エッセイの火付け本であったと思います。
実父を熊本とカリフォルニアで遠距離介護(2009年から3年半に及んだ)、っていったいどういうこと?ありえない! の疑問から手にとりました。
実母が先に亡くなり、残されたお父さまをひとりっ子の比呂美さんが、行ったり来たりで介護。1~2か月カリフォルニアで過ごし、半月日本で暮らすというサイクルで。
要介護認定、ヘルパーさん、ケアマネさん、主治医、リハビリの手配を日本にいるうちに整え、毎日のように国際電話をいれ(もちろん日本時間を考慮しながら)、時にはヘルパーさんに電話口にも出てもらい、おかしいと思ったら、先方にアメリカから連絡し、とんでいってもらう。
そういうことだったのですね。遠く離れていても、比呂美さん流の「介護」が可能だった。
【離れている間は、毎日電話をかけます。一日に何度もかけます。独居を始めたばかりの頃、父が言いました。「夢を見ても、ばあさんに話せない、それがとても寂しい」と。それ以来、父が起きた頃を見計らって電話をかけます。カリフォルニアは夕方です。】

ご母堂がまだ病床だった頃。
【今回しみじみと私は、私こそが伊藤さんちの大黒柱であると認識した。(略)経済的には親は私に頼っていないし、私は親に頼っていないのだが。でも大黒柱だ。母の顔を撫でる、父と時代劇について語り合う、犬を叱る、犬と遊ぶ。そのひとつひとつが大切きわまりないことで、しかも私にしかできないのである。ところが私は、カリフォルニアでもけっこう大黒柱なのだ。ごはんは作るし、買い出しにも行くし、ゴミ出しは一手に引き受けているし、精神的にみんなをつなぎ止めているし。あっちでもこっちでも必要とされている。】

ひとりとなったお父さまは、大の巨人ファンで、娘は全試合を観戦できるようスカパーの手配も国際電話でしちゃう。「科捜研の女」の沢口靖子が好き。一連の米倉涼子のドラマも好き。「おもしろいんだよねー」と電話で父親が話す。家に居ながらのこのTVという娯楽は、多くの高齢者を救っている。大きな役割だ。
ちらしに入っていたピザが食べたい発言、デパートの駅弁祭りの駅弁を要求したら、娘はそれにしたがって動く。「食べる」のもTVと同じく、数少ない大切な楽しみ。広告の威力。食の細くなった者の食欲を誘い出す、これはスゴイ(商売上手♪)。
お父さまはなかなか元気で(電話では愚痴も言い、野球の試合の報告もし…)たくさんのヘルパーさんに出入りしてもらい、しっかり生きていた。本当は娘にそばに長くいてもらいたかった。でも娘の生活もあるから、そこはのむしかなかった。
父上との会話から伝わる世界=もうこれを全部読んでもらうしかない。それでしか真意は伝わらない。と言えよう。

熊本に帰った時、そんなことを言うとは考えられないお父さまが「あんたがいなくなったら入院する」と。Dr.は「本人が入院するっておっしゃっているなら、こちらはもう大賛成」と、すぐに手配をしてくれた。そうか、考えたら入院するなり、介護施設に入るなりすれば、遠距離での見守る介護は十分可能なわけだ。要は、年をとっても自宅で過ごしたかったお父さんだったのだ。
前日の父は、まだ人間の父だった。しかしその当日、病院に行く直前の父は、おどろくほど老い衰えた、顔だちも表情も人格さえも変わってしまった父だった。ろくにしゃべることもできなかった。(略)病院から迎えが来た。~呂律のまわらない口調で私に指示した。どこに通帳があって、どこに現金があるか。それから迎えの車椅子に乗って、病院の車に連れられていった。(略)まさか10分後に死ぬとは思っていなかった。主治医のK先生も思っていなかった。】

【成田空港に着いたときの感じが変わった。~入国審査場にたどり着く直前に、降りる階段がある。降りながら見上げる壁に「おかえりなさい」と日本語で書いてある。あれにちょっとうるうるする、とこっちの在住の女たちがみんな言う。実は私もそうだ。~父が死んで、最初に帰ってきた7月。「おかえりなさい」の前で感じた根無し草感ほど、切実だったことはない。まだ友だちもいるし、親戚もいる、それなのに親がいなくなったというだけで、こんな心持ちが違うのかと。】
父親が住んでいた場所とは別に、著者は熊本に自宅も置いてある。介護に帰った時も、すぐ近くの自宅に夜は必ず戻っていた。仕事も持っていたし、そうでなければ自分の時間がなかった。
そんな帰る自宅は今まで通り日本にちゃんとあるのに、親を亡くすということは精神的にも肉体的にも「還る場所」の喪失感をもたらす、ということなのだろう。

今までの作風や主張からは、巻末の解説にもあるように、伊藤さんらしくない面がたくさん詰まった本だったし、だからこその本音も出ていたように思う。けしておろおろすることのなかった著者が、ここでは事情が違っていた。まちがいなく「お父さん子」だったという。文章に向かう姿勢はこのお父さまありき~とみました。
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