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父の続き② [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

《つづき》
臨終後、私は方々に連絡を入れつつ、病室では1時間余りで父の仕度を整えてくださいました。
「ご家族、どうぞ」で、数分父に話しかけつつ、亡くなった時に着ていた衣類を袋にしまい、一時私も帰宅。
霊安室には数時間しかいられないということで、早朝に業者に連絡(24時間体制)。午前10時半には病院へ車が手配され、私も一瞬、地下の霊安室を出た父と共にその黒塗りの車に乗り、運転手さんに私の車を止めた駐車場まで行ってもらい、私が追いかける形で葬儀ホールまで。

家に父は帰りませんでした。3年半前の移住当初は若干歩けたものの、既に介護生活はスタートしていた父、ご近所との面識はなく、万一の時はお知らせはせず、家族だけで送り出すことに決めておりました。ホールの安置所(思っていたよりずっと広いお部屋☆)で最期の数日は過ごしてもらいました。

ここ数年、父方関係では不幸が続き(そういう年代・ショックを避けるため父にきょうだいの死を告げられないこともあった→いつのまにかそれを伝えてもわからない時期に突入していきました)、遠方もあり、お互い離れたままでのお悔やみが通例となっておりました。
私たち3人と、妹夫婦(姪たちはひと月前に父に会ってくれていました)でこじんまりと、自分たちの中でしっかりと送ることができました。

寒波到来、大雪注意報発令の日で、火葬場から直接、他県の妹たちは帰途へ。
前泊してもらったのですが、夕飯は何にしよう?と一瞬考え、決めました☆
父は元気な頃、よくお好み焼きを作ってくれました。私がキャベツを切るくらいで、あとはお皿に盛るまですべて父《最後は10年前ぐらいだったでしょうか…》。
義弟もおいしい々と食べてくれました(現在の我が家では月に一度くらいで土日の昼食に出てくるMyパターンです)。
そして、そのひと切れを棺に入れました。ラップして(プラスチックはNO!ですがそれくらいはOKだそうです)。あとは私がアルバイト先でいただいてきた、はぶきのリンゴも。妹は上手にメッセージカード(写真入り)を書いてきていました。愛用の帽子を入れる予定でしたが、妹がかぶったら案外似合ったこともあり持ち帰ることに(笑)。

安置していた数日は通い、気になっていたまゆげにハサミを入れ、整えました。爪を切るときと同様に、痛くもないのに毎回やたら怖がる父でしたが、もうそんな反応も不思議に当然ないのでした。
火葬の直前も、熱くないのかなぁ…とつい反射的に思いました。
でも、横には次の別のご家族が控えているのが現実《冬は亡くなる方が多いそうで、父も空きを数日待ちました》。「あっ、熱いよー」なんて、思わず発する間もありませんでした。

以前読んだ本に。
ストレスがかかるのは、一番が「配偶者の死」なのだそうです。まぁ、男性が妻を亡くすことの衝撃の方がより大きそうですが。
「お父さんというお荷物をあなたたちに残すことだけは避けたかった」というのは、母の本当の気持ちなんだろうと思います。

後日談。
家族親戚以外には極力伏せた父の死ですが、先方から言われ、びっくりした! が2件ありました。
1つは、諸手続きに近くの出張所へ出向いたところ、火葬予約の連絡が葬儀社から行っており(公に支払い、許可されるものなので~)、既に手早く書類の用意が出来ていた(待っていた)ことです。
もう1つは、母の薬を薬局にとりに行った際、薬剤師さんから「このたびはお父さま、ご愁傷さまでした」と声をかけられたこと。
父の薬は、入所施設からの指示で毎回こちらで調合、用意されていました。処方が必要なくなった旨の連絡があったのですね。このへんではまず存在しない我が苗字ですし《私の住む集落はナント7割近くが同じ姓→ですので下の名前で呼びます!》、すぐに合致したのでしょう。

長くなりました。私の備忘録の意味合いが強いですが、お読みいただきありがとうございます。
父の見送りについては、こうしておくとよかった、うちの場合はこれでよかった、私が早めに動いた手続きetc…、もう少し書き残せたらと思っております。
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父の続き① [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

前よりつづき》
早朝、施設の主治医から父の血圧降下の連絡があり、「こちらでやれることはやりましたので、あとは救急車を呼ぶかどうかですが…」と告げられました。と言うのも、入所の際の契約(万が一の際の家族の意向、とりきめ)で、『手術は望まない、胃ろうもしない、無理な延命措置はしない』としておりました(つまりは施設で看取りまで)。これにそのまま従えば、この場で時間が経過すれば自然と…でしたので、そのお伺い(確認)もありました。
「母と相談してすぐ折り返します」と。

結果、できる限りのことはしてもらいたい、という母の希望で、Dr.が救急車と行き先の病院の手配+施設の看護師さんの付き添い乗車…で、私と母とAyuがあとから病院へ駆け付けました。
救急担当医と父本人と会えるまで数時間。その間も、看護師さんはずーっと私たちと共に待っていてくださりました。お役目だったのでしょうが、とても心強かったです《入所者の一番現状に詳しい者として》。

「肺炎を起こしています。(レントゲンで)腸をみると、消化されずに残っています。」…人間は夕方にとった食事はその時間にはほぼ空っぽになっている、のだそうです。朝に急変した父、前日の夕食は普通にいただいたわけで。つまりは、人間の生きていく身体的機能が失われている。治療はしますが、手術という段階ではない。遅くとも一週間のうちに…の診断でした。

昼前に入院手続き。また明日以降、面会が許されたら…と帰途へ。
その帰り道、運転中のため気づかずの着信が(私にも母にも)複数あり。「もう一度(危険なので)、病院にお戻りください」と。半分くらいまで来て、そのままとんぼ返りとなりました。

病室に、使い捨ての大仰な装備(エプロン、マスク)をして短時間に一人ずつ(事情を話し、Ayuと私は一緒に)。
その後も危険な状態には変わりなかったので、指示に従って待合室に待機しておりましたが、私以外の2人はさすがにキャパオーバー。
もう気持ち的には十分お別れをしたと考え、夕方ようやく家に戻りました。

いつ呼び出しが来るかわかりません。食べられる時に…と食事を済ませたり等々。病院という守られた場所にいる重篤な父より、イレギュラーな行動に弱い母と娘2人のことの方が気がかりでもありました。

時計が翌日になった頃に一度、病院よりTEL。看護師さん、「あっ、今、持ち直しました…」。で、またしばし私、仮眠。
2時半すぎ。「ご家族の方、いらしてください」。
母に断りを入れ、隣りのAyuを起こさないように。ひとりで。これだけの深夜帯の運転は初めて。「慎重に運転していくので少し時間がかかるかもしれません」と言ったら、若い看護師さん、「はい! とにかく事故らないでいらしてください!」と。

ビームで点灯、対向車がほとんどない時間帯なので思っていたよりストレスなく《ただ、真っ暗闇の中、シカの家族をいくつも目撃し、びっくり》。

「父親はたぶんもう亡くなっている」という意識を持ちながらの運転は、冷静な自分のような、慌てているような妙な心持ちでした。車のラジオは常にNHK‐第一、『ラジオ深夜便』で ♪シクラメンのかほり by布施明 が流れていました。

病室到着。父の横の、機械の波形は「0」表示。「ご家族が到着しました」で、前日とは違う夜勤Dr.の立ち合いの元、死亡時刻確認。
私の到着時間となったわけですが、厳密には少し前のことだったでしょう(←聞いて確かめました。「そうですね」と)。

介護度が進み、施設で暮らすようになって5カ月余り。年の瀬にこのようなことになるとはまったく想像しておりませんでしたが、徐々に身体の機能が終焉に向かっていった、まっとうな最期。86歳が目の前でした【今まで手術や入院の経験はなし・大往生~】。

《もうちょっとつづきます
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