SSブログ

父の続き① [我が家の介護いろいろ&認知症関連]

前よりつづき》
早朝、施設の主治医から父の血圧降下の連絡があり、「こちらでやれることはやりましたので、あとは救急車を呼ぶかどうかですが…」と告げられました。と言うのも、入所の際の契約(万が一の際の家族の意向、とりきめ)で、『手術は望まない、胃ろうもしない、無理な延命措置はしない』としておりました(つまりは施設で看取りまで)。これにそのまま従えば、この場で時間が経過すれば自然と…でしたので、そのお伺い(確認)もありました。
「母と相談してすぐ折り返します」と。

結果、できる限りのことはしてもらいたい、という母の希望で、Dr.が救急車と行き先の病院の手配+施設の看護師さんの付き添い乗車…で、私と母とAyuがあとから病院へ駆け付けました。
救急担当医と父本人と会えるまで数時間。その間も、看護師さんはずーっと私たちと共に待っていてくださりました。お役目だったのでしょうが、とても心強かったです《入所者の一番現状に詳しい者として》。

「肺炎を起こしています。(レントゲンで)腸をみると、消化されずに残っています。」…人間は夕方にとった食事はその時間にはほぼ空っぽになっている、のだそうです。朝に急変した父、前日の夕食は普通にいただいたわけで。つまりは、人間の生きていく身体的機能が失われている。治療はしますが、手術という段階ではない。遅くとも一週間のうちに…の診断でした。

昼前に入院手続き。また明日以降、面会が許されたら…と帰途へ。
その帰り道、運転中のため気づかずの着信が(私にも母にも)複数あり。「もう一度(危険なので)、病院にお戻りください」と。半分くらいまで来て、そのままとんぼ返りとなりました。

病室に、使い捨ての大仰な装備(エプロン、マスク)をして短時間に一人ずつ(事情を話し、Ayuと私は一緒に)。
その後も危険な状態には変わりなかったので、指示に従って待合室に待機しておりましたが、私以外の2人はさすがにキャパオーバー。
もう気持ち的には十分お別れをしたと考え、夕方ようやく家に戻りました。

いつ呼び出しが来るかわかりません。食べられる時に…と食事を済ませたり等々。病院という守られた場所にいる重篤な父より、イレギュラーな行動に弱い母と娘2人のことの方が気がかりでもありました。

時計が翌日になった頃に一度、病院よりTEL。看護師さん、「あっ、今、持ち直しました…」。で、またしばし私、仮眠。
2時半すぎ。「ご家族の方、いらしてください」。
母に断りを入れ、隣りのAyuを起こさないように。ひとりで。これだけの深夜帯の運転は初めて。「慎重に運転していくので少し時間がかかるかもしれません」と言ったら、若い看護師さん、「はい! とにかく事故らないでいらしてください!」と。

ビームで点灯、対向車がほとんどない時間帯なので思っていたよりストレスなく《ただ、真っ暗闇の中、シカの家族をいくつも目撃し、びっくり》。

「父親はたぶんもう亡くなっている」という意識を持ちながらの運転は、冷静な自分のような、慌てているような妙な心持ちでした。車のラジオは常にNHK‐第一、『ラジオ深夜便』で ♪シクラメンのかほり by布施明 が流れていました。

病室到着。父の横の、機械の波形は「0」表示。「ご家族が到着しました」で、前日とは違う夜勤Dr.の立ち合いの元、死亡時刻確認。
私の到着時間となったわけですが、厳密には少し前のことだったでしょう(←聞いて確かめました。「そうですね」と)。

介護度が進み、施設で暮らすようになって5カ月余り。年の瀬にこのようなことになるとはまったく想像しておりませんでしたが、徐々に身体の機能が終焉に向かっていった、まっとうな最期。86歳が目の前でした【今まで手術や入院の経験はなし・大往生~】。

《もうちょっとつづきます
nice!(0) 

nice! 0