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姉貴の尻尾―向田邦子の思い出 [向田邦子と妹・和子]

姉貴の尻尾―向田邦子の思い出 (講談社文庫)

姉貴の尻尾―向田邦子の思い出 (講談社文庫)

  • 作者: 向田 保雄
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1993/05/15
  • メディア: 文庫

まだつづいています。。。
これは邦子さんのすぐ下の弟(2つ違い)が、姉の死から2年後に刊行(1983年初版)。
このきょうだいは4人。邦子・保雄・廸子(みちこ・この人だけ既婚)・和子。下2人は4つずつ違う。
だから、女と男の違いはあれど、姉は弟と小さい時から行動を一緒にすることが多かった。

姉が亡くなって、思い出話を書かないかという話はすぐにあったそうだ。←まず商売なんでしょうね…このお誘い。
着飾らない文章、末妹の和子さん同様、やはり弟さんもいけてると感じました。
この著者・保雄さん、実はもう亡くなっています(姉がS4だから、S6年生まれ)。和子さんの方の読後感で書きましたが、一人暮らしで、マンションで倒れているところを発見された時には死亡していたと思われます。姉の13回忌を終えた「あと」なことはこの本からはっきりしました。
そして、和子さんが「この兄はとても融通がきかなかった」と著書で書いてあることから、兄がもうこの世にいないからこそ、和子さんがその後(邦子さん没後20年経って)姉に関連する出版が可能だったことも大きく察せられます。

S23~26年(邦子19~22歳)、弟と2人、母方の祖父母に(麻布)下宿の時期があり、そこに同居していた叔父がNHKに勤めていました。その関係で、公開放送によく2人で出かけたことが、その後の邦子に大きな影響を与えたことを知りました。

この本のまん中には、自分ひとりだけで姉の遺体と対面し、異国で荼毘に付し、日本で待つ家族に遺骨を持ち帰った一週間のことが克明に記されています。
この、こと細かな経過は、家族にも話していない・話せなかった。顔を見て話す勇気はなかった。死後2年経ち、こうして世に出版することで、母親や妹たちにさりげなく報告したかった、とありました。

ラジオからの搭乗者の氏名、“…ケイ・ムコウダ ケイ・ムコウダ…” が哀しく耳に残っていること、あちこちから問合せやお見舞の電話がかかってきて、ものを言う前に顔をこすらないと顔面が硬直しそうだったこと。

現地台湾には、ひとりで。すぐ下の妹さん(家庭持ち)が行きたがったそうですが、このときばかりは「2度あることは3度ある」と考え、きょうだい代表として“飛行機に乗るのは自分だけ”、としたこと
(下の妹・和子さんは、高齢の母親と留守番するしかなかったと思われます)。

真夏8月の惨事(取材旅行でもあったのでしょう、他に3人同行していたよう。20代の若い女性も…)、台湾での遺体安置状態は大変なものだったとか。一両日に身元確認をしなければ暑さにもたない。
でも、弟はひと目で姉を見つける。間違いないと確信したといいます(未確認が多い中)。51歳の姉、日頃よく会うことの多かったきょうだい。弟はすぐわかったのです。
台湾での火葬。断ったのだが、“台湾の儀式”にのっとって(他の搭乗外国人も同じだったことでしょう)。姉も苦笑していただろうと。

自分ひとりだけが、動いている姉と、動いていない姉を知っている。これでよかったのかもありながら、遺骨と共に飛行機を降りる。下の妹の顔が目に入った。。。
→私はここで涙をこらえました。もう完全に感情移入してしまってますから。

【アジア航空のKさん。「あの状態では、機体が2つに割れた瞬間に、お亡くなりになっています。ツバを飲み込む間もありませんね」とおっしゃった。どんな言葉よりも、一番の慰めだった。
~苦痛も恐怖もなかったとすれば、それは故人のために喜んでやらなければならないことだった。】

事故のことが中心になりましたが、世間で評価されている邦子さん、実はおっちょこちょいの姉だったと綴られています。
ハンドバック関係の仕事をしていた弟が、姉にあげたBagはたった3つのみ。その1つが一緒に灰となったそうです。乳癌を患ったあとの姉にあげた軽いBagは、最後の旅のおともでした。

…もうおしまい、といいましたが、またこれを読んで向田作品に興味がわいてしまいました。
まだ読書は続けることに。。。

検索していて、こちらに出会う。
私とまったく同じように、「向田邦子の恋文」から、妹和子さん、そして弟さんを…とすすんだ読者はやっぱりいるのね、とうれしく思いました☆
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