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ヴィヨンの妻 [太宰治と家族たち]

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

  • 作者: 太宰 治
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1986/12
  • メディア: 文庫

短編6つを収録。そのうち、表題作の「ヴィヨンの妻」「桜桃」には障害を持った長男らしい表記があると先日知ったので、先に目を通す。たしかにあり。
ヴィヨンの妻、救いようのないダンナなのだけれど、妻の行動がなんとも、である。この作品通じて“なんとも”なのだが、捨てがたい何かが漂っている。
「桜桃」は『子供より親が大事、と思いたい』ではじまり、終わる。
その他では、「トカトントン」がリズムがあってよかった。リズム、大事。
これに、鉛筆の書き込みがある。私が夜間短大時代のゼミで使っていた新潮文庫だから。
でも、全然と言っていいほど「トカトントン」を覚えていない。昭和の最後ぐらいのことである。
たしかにだいぶ前だが、ページ全体の焼けがひどく(管理状態が悪かった?)、クンクンと嗅いでしまう《私は古書のかびくさい匂いがたまらなく好き》。
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太宰治の愛と文学をたずねて [太宰治と家族たち]

太宰治の愛と文学をたずねて

太宰治の愛と文学をたずねて

  • 作者: 松本 侑子
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 2011/05/30
  • メディア: 単行本

太宰の生涯と、由縁のあった土地を追う。
【短編「桜桃」に、太宰は、知的障害のある息子を育てる妻と作家である夫の冷ややかないさかいを書いている。】
「ヴィヨンの妻」以外にも、書いているのか。もしかしたらまだまだあるのかも? 
やっぱり、この人は私小説作家なのだな。
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恋の蛍 山崎富栄と太宰治 [太宰治と家族たち]

恋の蛍: 山崎富栄と太宰治 (光文社文庫)

恋の蛍: 山崎富栄と太宰治 (光文社文庫)

  • 作者: 松本 侑子
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2012/05/10
  • メディア: 文庫

文庫、になったところで借りる。第29回新田次郎文学賞受賞。久々に付箋が大量に付く。
太宰と最期を共にした山崎富栄が、日本初の美容学校創立者の令嬢だったとは知らなかった。
美容師として、映画俳優も担当した。新劇女優の加藤治子(3つ年下になる)もいたというから驚く。
二人の生涯、太平洋戦争、恋と創作の日々、残された家族の思いを、徹底した取材で描く。
【この(評伝)小説を執筆した動機は、太宰と山崎の生涯、二人の恋と心中について、山崎家と富栄の視点から考えてみたいと思うからだった。】
【大正デモクラシーの時代に生まれ、関東大震災、第二次世界大戦、東京大空襲、疎開、敗戦、夫の戦死、戦後の民主化という、激しい変化をくぐりぬけて生き、平和な時代になってから敬愛する太宰とともに冥界へ旅立った(昭和23年)。】
山崎富栄は、美容学校の大事な、やり手の後継者であった。親が勧めた結婚でたった12日で未亡人に。知らなかった。

【情死の相手の山崎が太宰の首を絞めて殺したあとで一緒に入水したものと推定された。】←これはあくまで憶測。縄跡があったという証言が出た。山崎家は苦しんだことであろう。
【富栄が太宰と会ったのは、太宰が太田静子から懐妊を告げられた10日後の3月27日であり、美知子が出産(第3子)する3日前だった。】
【富栄は、太宰との出逢いから心中の夜まで日記をつけた。富栄が遺した日記は、作家の晩年を知る一級資料となった。】
【芥川が死んでより、作家はみずから命を絶つものと思っていた。~大正の有島武郎は45歳で人妻と情死した。】←もあったかもしれないが、それ以前にこの人は、未遂を繰り返していたし、そういう問題でもなかろう。
富栄は、自分の貯金を惜しげもなく、太宰のために使った。
両親への遺書には「女として生き女として死にとうございます」と。

【兄が生きて帰っていれば、富栄さんは、死なずに済んだと思います。あの戦争さえなければ…。】戦死した後のこととはいえ、夫側の家族もいろいろと言われただろう。 なのに、この夫・妹の言葉は重い。たしかに誰もが「戦争」に巻き込まれた時代だったのだ。

【とても払えない高額の税金(本が売れたことにより)、治る見こみのない末期の肺病、文壇での四面楚歌、愛人と子ども、なにもかも自業自得で、もうお手あげだった。】
いずれの近いうち、自然に死ぬ体だった。待てなかったのか…。

太宰の死の誘いに応えたのは、女として、独占したという思いが当然あったからだろう。
【(「人間失格」をかくそばで)富栄はこの小説を誰よりも先に読める息づまるような幸運に胸のふくれる思いをしていた。】
富栄はさいごの日記に「園子ちゃんごめんなさいね」と書いている。太宰の一番上の子どもの名である。
光をあびてこなかった富栄側から書いたのは正解だったと思うし、とても興味深かった。
まだ私は「人間失格」を読んでいない。
…「ヴィヨンの妻」は、成長の遅れた坊やをかかえた妻が主人公、だったのか。そうなら、これは間違いなく太宰の早くに亡くなったダウン症の長男の存在が下敷きとなっているのだろう。
短大のゼミで太宰には触れたから、買った文庫が揃っている。近々、読んでみよう。
≪これでやっと溜めていた読書記録が現在に追いつきました。読んでくれた方、ありがとうございます。≫
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快楽の本棚―言葉から自由になるための読書案内 [太宰治と家族たち]

快楽の本棚―言葉から自由になるための読書案内 (中公新書)

快楽の本棚―言葉から自由になるための読書案内 (中公新書)

  • 作者: 津島 佑子
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2003/01
  • メディア: 新書

【私の父はスキャンダラスなイメージの強い小説家だった。母としては、子どもに聞かせたくないことが多かったのだろう。家で「父親」を語ることはまったくと言っていいほどなかった。】
【母親に知られれば叱られそうな気がしたので、こっそり全集本の中身を調べてみた。私自身が生まれてからのわずかな時期に書かれた作品を読んだ、という記憶がある。
私がどこかで登場するのではないか、とおろかにも期待していたのだ。】
【30過ぎの「おとな」になって、結婚、離婚を自分が経験するうちに、「恋愛」とは「お話」のように、ただ甘いものではなく、打算もあれば、偶然の要素も大きく~(略)その戦いが、「恋愛」の実態なのかもしれない。】
【“イメージの押しつけを破ろうとするのが文学の役目だと言える”】
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津軽 [太宰治と家族たち]

津軽 (新潮文庫)

津軽 (新潮文庫)

  • 作者: 太宰 治
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1951/08
  • メディア: 文庫

ようやくの本人、作(笑)。昭和19年、36歳の作品。
正直いって私はなかなかのって読めなかったが、太宰通は、これを筆頭に上げる人が多いらしい。

【~そののちも私は色んな教師にぶたれた。にやにやしているとか、あくびをしたとか、さまざまな理由から罰せられた。授業中の私のあくびは大きいので、職員室で評判である、とも言われた。私はそんな莫迦げたことを話し合っている職員室をおかしく思った。】 同感。
【私の母は病身だったので、私は母の乳は一滴も飲まず、生まれるとすぐに乳母に抱かれ、3つになってふらふら立って歩けるようになった頃、乳母にわかれて、その乳母の代りに子守としてやとわれたのが、たけである。~3つから8つまで、私はたけに教育された。】
【~たけが私の家に奉公に来て、私をおぶったのは、私が3つで、たけが14の時だったという。~けれども、私の思い出の中のたけは、決してそんな、若い娘でなく、いま眼の前に見るこのたけと寸分もちがわない老成した人であった。~】
この太宰の故郷を訪ねる旅(出版者からの企画)は、『たけと会うための旅』と言える。クライマックスはこれだ。
【(たけ)「30年ちかく、たけはお前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮らしていた~。」】
本(文学)との出会いはすべて、この「たけ」によって太宰にもたらされた。
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心映えの記 [太宰治と家族たち]

心映えの記 (中公文庫)

心映えの記 (中公文庫)

  • 作者: 太田 治子
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2005/08/26
  • メディア: 文庫

1986年に坪田譲治賞を受賞。そのことは知っていた。しかし、静子と治子という母娘について綴った内容であることまでは気づかずにいた。
「明るい方へ」でも、世間に背を向けた道を選んだ母親の苦労が書いてあったが、これを読んで本当に金銭的にも2人で大変な思いをしてきたことはわかった。
母静子が亡くなったのは昭和57年。つい最近までご存命であったともいえよう。もうずっと前に亡くなった人だと勝手に私は決めつけていた。享年69歳。母を亡くした治子さんはそれからどうしたのであろう、と思っていたが、既に当時35歳になっていたのであった。少女が母を亡くしたわけではなかった。

【~トイレも台所も、お風呂もちゃんとついている、そんな二人の理想のアパートが窓の向うに蜃気楼のように浮かび上がってくるのを感じた。】

とにかく親密な母と娘である。それもしかたがない。その間に父の姿がない分。
そして、それは太田静子が結婚に破れ、その後母・太田きさとの2人の生活を綴った、あの「斜陽日記」とも間違いなくだぶるのである。
この本にはほとんど太宰のことには触れていない。あくまで死を迎えるまでの母、と娘の物語である。

【~大きい声でお説教する母にうんざりしていた私は、早く母が起き上がれるようになるといいと思う一方、このままこうしていつまでもおとなしいミルク飲み人形のようであってほしいとも思うのであった。
「起き上がれるようになったらお引っ越ししましょうね」 私は少女がお人形に話しかけるように、ゆっくりと優しい口調でいった。】

静子は母・きさが死んだからこそ、太宰との関係を進めることができた。母の眼があったなら、踏み込んでいけなかったのである。「斜陽」も生まれなかった。

静子は娘・治子の結婚を常に望んでいたが、結局はやはり母が死んだ後に縁付き、40歳でようやく?念願の「母」になる(やはり女の子が産まれた)。
改版・文庫あとがきより。【40歳になって、娘の万里子が誕生した。万里子が高校生になると共に母娘二人の新しい生活が始まった(つまり離婚した)。】
3代にわたって続く、母と娘の密接な関係~~。

太宰研究家でもある長部日出雄氏の解説より。
≪~母の生涯、母と娘の生活を回顧しながら、各一篇一篇のなかでは、過去と現在のあいだを自在に往復し、さまざまな時間と空間が交錯するので、単一の時の経過にそって書いたのではなかなかとらえきれない、いわば人生の総体が浮かび上がってくる。≫
そうなのだ、その手法が「明るい方へ」でも最初読みにくかった気がする。また、治子の祖母である「きさ」(きささま、と常に呼ばれている)と治子の母である「静子」が時おり、どっちの「母」を差しているのか?と思う時もあった。
しかし、こうして数冊読んでいるとその手法にも慣れ、のって読めてきた。
治子さんの腕もあるけれど、血筋もあるんだろうな、、、と感じた。

☆検索していて、導かれた。8月29日、10月4日、17日などに太田治子さん出演の番組について触れていらっしゃいます。嗚呼、もう再放送していたのですねー☆
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斜陽日記 [太宰治と家族たち]

斜陽日記 (小学館文庫)

斜陽日記 (小学館文庫)

  • 作者: 太田 静子
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 1998/05
  • メディア: 文庫

世間では太宰の愛人と言われた太田静子の作。「斜陽」の重要な参考資料となった。これは本来「相模曾我日記」として静子が綴っていたもの。静子はひとり娘を産み、太宰の死後、生活のためにこれを出版した(初版昭和23年)。世にはいろいろと言われたことだろう。発売元の石狩書房が新しく付けたタイトルだと治子は書いている。
太宰は入水の日、誰にもわかるよう文机にこの「日記」をきれいに置いていた。そのことから、その後、本として公表に至ったことをきっと太宰も悪く思っていないはずだ、と治子。

この作自体はすみませんが、走り読み。本来は作家として生きたかった女性(静子)だが、やはり太宰の手によったからこそ後世に残ったと思う。
後半に収録の治子さんの文章「母の糸巻」や、編集部等による解説をむしろ目的として。

「母の糸巻」(太田治子)より。
【『斜陽』が雑誌「新潮」に連載中に、私は母のお腹の中にいた。その数カ月後の昭和22年11月12日に生れた私は、「斜陽の娘」ということになった。太宰の入水は、翌23年の6月11日であった。】

【「斜陽」も、母の「斜陽日記」も、ずっと少女のころから上の空でしかよむことができなかった。自分の生れいずるまでの現実を、突きつけられるような気がして恐かったのだ。私は、男女の純粋な愛情から生れてきたのだとだけそっとオブラートに包んだように思っていたかった。そもそも、「斜陽の娘」と呼ばれることも嫌だったのである。】

【太宰が「斜陽日記」から母のさびしさを母以上にわかることができたのは、彼自身がたえず人恋しかったからだと思う。(「斜陽」の登場人物)和子の分身でもある太宰は、母なるものを求め続けていた小説家であった。和子は、相手の(「斜陽」の)上原の人間としてのつまらなさも充分わかった上で、ひめごとを絶対的な愛へと高めていくことができた。~きっと太宰は聖母の暖かな胸に幼な子のように抱かれる自分を感じながら、和子の最後の手紙を書き上げたのだ。一方、「斜陽日記」の作者の母も、父なるものの熱き胸につねにあこがれていた。
太宰と母はお互いに「聖なるもの」を求めながら、ひかれ合ったのだと思う。「斜陽」と「斜陽日記」を初めて心してよんだ後の私の風邪の状態はすっかり楽になっていた。】
↑この2つを“心してよんだ(よめた)”のは、治子50歳の時、というのだから、やはり複雑なものだと思う。
いわゆる「斜陽館」(太宰の生家)に、つい先日、番組で足を踏み入れた治子さんの姿がだぶる。
〈上記、娘が分析する太宰という人間、にあるように、その生い立ちすべてが「小説」にも「死」にも反映されているとみるのが正当なのでしょうね。〉

ちなみに小森陽一氏の解説によると、≪太宰治と太田静子と知りあったのは1941年の初秋。1947年2月21日、太宰は下曾我に静子を訪れ、5日間滞在し、3月の後半に懐妊を知らされている。~≫
ここまで研究され明らかにされてしまっているのだから、有名ってつくづく大変なことだと思う。その子孫までも。。。
(まっ、私も興味深く追っているわけですが…。)
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明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子② [太宰治と家族たち]

明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子

明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子

  • 作者: 太田 治子
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2009/09/04
  • メディア: 単行本

太田治子さんが父・母のことを書いた新刊読後感の②。
これを読んで知り、びっくりしたことが大きく2つ。
“太宰は我が子治子を抱くことも、遠くからでさえ会いもしなかったこと”【私が生まれて太宰が入水する迄に、およそ7カ月の期間があった。その間に太宰は一度もくることはなかった。】、
“静子のお腹に子がいなかったら太宰は静子と死を共にしたかもしれなかった” こと。
(いまさらながら、だが、太宰はなぜ『ひとり』では死ねなかったのだろう。。。)

【「斜陽」が一冊の本となって新潮社から刊行されたのは、昭和22年12月、私が生まれて1カ月もたたない頃だった。太宰が入水したのは、その半年後のことになる。】

【勤労奉仕の時にも、皆が揃ってモンペ姿の中で母だけがサンダルばきの洋装だった。~戦争中の「非国民」を、絵に描いたような姿だと思う。~母は自由主義者であった。】
世の中がこのような時代だったことを、思う。それらを貫き通した生き方にあらためて驚く。

太宰が一番初めの自殺未遂(相手は亡くなる)を振り返って書いた「虚構の彷徨」という小説を静子が読み、太宰に手紙を書いたのがきっかけ。静子もまた元夫との間に生まれた女児を亡くし、その罪を文章を書くことで乗り越えていきたいと思っていた文学女性であった。

【恐らく彼女(静子)に出会う前から太宰はその手紙から創作のヒントを得られるかもしれないというインスピレーションがひらめいたと考えられるのである。】

【「太宰ちゃまはえらい小説家だったの。ある日、女の人と川に落ちて死んでしまいました。~」 そうやって真実をしっかり教えてくれたのだった。】
【「太宰ちゃまを信じて、私はいわれるままに日記をお渡ししたのよ。でも日記を渡す時は、悲しかった。子供のようにそれは大切にして綴ってきたものだったの。」 母は「斜陽」のもとになった日記のことを、何度も繰り返してそう話した。】
【「私は、身も心もすべてを太宰に投げだして、太宰の中で生かされる自分をみいだしたいと考えたの。」 高校生の頃の私は、母からそのようなことをいわれるたびに身ぶるいがして逃げたくなった。
しかし今は、それが真実だと思って冷静に受け止めようとしている。】
【太宰がもし妻子を捨てるような男であれば、決して彼を好きになっていなかったと母は繰り返しいっていた。】
この母子はやはり特別な関係だと思う。すべてを娘に小さい頃から話してきかせている。
それに比べ、本妻の美知子夫人は次女・津島佑子さんには父親の死を言い濁し、ごまかしてきた様子がある。
まさしく対照的だ。

【「赤ちゃんがほしい」 手紙の中にそうきっぱり書いて投函した。まだプラトニックな関係のままの相手に向って、よくそこまではっきり書くことができたものだと溜息がでる。】
そう娘、が書いている。

静子がそういう存在だとは知らずに、あとに共に入水した美容師・山崎富栄と会った時の印象についてもあった。
【何てよく気のまわる女性かしらと母は感心したという。よもや太宰とただならぬ関係に入ったばかりの女性とは思わなかった。およそ化粧っ気のないきびきびした婦人にみえた。
一方、山崎さんも、太田静子のことを「斜陽」の日記の提供者としてのみ考えていた。太宰がそれだけしか教えていなかったのである。もしこの時うつむいてばかりの女性のお腹に太宰の子供が宿っていることがわかっていたら、山崎さんはどうしていただろう。
太宰はそれが恐かった。しかし真実はきちんと知らされるべきであった。そうしたら、私の誕生の直後の山崎さんのショックは和らいでいた筈である。】
この女性の存在が、産まれた治子と太宰が一度も会えなかった決定的理由らしい。
【久しぶりにあった太宰は、母の眼にはそれはよそよそしくみえたという。山崎富栄さんとの関係が始まってまもない頃のことであった。この時「斜陽」は、母の妊娠と共にもはや太宰の頭の中で完結していた。恋は同時にそこで終わらなければいけなかった。】
「(これで)治子とは死ねない…」 と太宰ははっきり言ったそうだ。言い換えれば治子さんを授かったからこそ、静子さんはその後苦労しながらも生き続けた。

【『人間は恋と革命のために生れて来たのだ。』 「斜陽」の中のこの象徴的な言葉も、そのまま母の日記からひきうつしたものであった。】
この言葉に尽きる生き方をした、型破りな女性だったということだろう(今、この時代にいたとしてもまれな女性だったかと)。
まただからこそ、太宰も魅かれたのだろうが。

上記には引用しなかったが、静子の母“太田きさ さま”の存在も娘・静子、そして太宰には大きな存在であった(また別の読後感で触れるかも)。
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太宰治と旅する津軽 [太宰治と家族たち]

とんぼの本 太宰治と旅する津軽

とんぼの本 太宰治と旅する津軽

  • 作者: 太宰 治
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/09/26
  • メディア: 単行本

カメラマン小松健一氏の、自分を語った文章がよい。
写真多し。写真家・田村茂の未発表の太宰の写真も収録。太宰が亡くなる年に27枚撮っている。三鷹の跨線橋での有名な写真など。
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津島家の人びと [太宰治と家族たち]

津島家の人びと (ちくま学芸文庫)

津島家の人びと (ちくま学芸文庫)

  • 作者: 秋山 耿太郎
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2000/01
  • メディア: 文庫

家系図あり。
【(いわゆる斜陽館)明治40年の秋、ほぼ一年半を費やして、邸宅は完成した。600坪の敷地に154坪の2階建て。部屋数は19室。選りすぐった良材、内装もぜいをつくした和洋折衷の建物である。】
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明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子① [太宰治と家族たち]

明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子

明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子

  • 作者: 太田 治子
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2009/09/04
  • メディア: 単行本

90分に及ぶ作家・太田治子さんのNHK教育ドキュメンタリーは今朝見終わりました。世間には愛人の子と言われた太田治子さんが、金木を訪れ、父親の生家であるいわゆる「斜陽館」に思いを背負って入っていく姿に感情移入してしまい、胸がキューっとなったのは私だけではないはず

太宰の生誕100年に、父と母が交わした手紙等を初公開。それらを盛り込んだ今回の新刊書を読んでからこの番組を視聴することができ、倍増してその世界を味わうことができました。
母である太田静子がその後女手一つで娘を育てることにどれだけ苦労したか(元は医者の娘でかなり「裕福」・その点は太宰と共通・つまり『斜陽』で“貴族”の母娘として描かれた)、戦争中であれ文学の世界にどっぶり浸かり、「赤ちゃんが欲しい」とまで手紙に書いた事実。そこまで私ははっきり知りませんでした。

私は履修の関係で、短大のゼミで太宰の短編を読まなきゃいけなくなり(笑)、新潮文庫のいわゆるあの黒のを数冊持っていますが、本当に太宰の作品を読んで好きだというわけではありません(だいたい長編は『斜陽』しか読んでいないし、はたち過ぎてからこうして触れただけで青春時代にハマった部類でもなし)。
ただ、太田治子さんがお嬢さんを育てる中で発表した絵入りのエッセイをAyuが乳児の頃に読み、好印象。その万里子さんはもう大学生になり、彼女の高校入学と同時に離婚したことも今回知りました(万里子さんという名は、母・静子が最初の結婚で亡くしてしまった娘・満里子、からもらっていることも)。
そして、NHK朝ドラ「純情きらり」は、太宰の正妻との間の次女、作家・津島佑子さんが原作、太宰と思われる役の設定もあり(宮崎あおいの主演も魅力だった)、本を読んでいくと15歳で亡くなった太宰の長男・正樹はダウン症であったことも私には発見でした。
そして、その兄の存在をいつも感じながら作品を書いている津島佑子さんも数冊読み、感ずること大…。
私は太宰より、父の存在から離れられない(世間が離さないのでしょう)その子ども、作家である2人の娘のいろいろな思いがとても気になるのであります。
《「正樹」という名が、太田静子から提案されたものだったという事実には、さすがに私もショックでした。このことは、生きていた津島(石原)美知子さんが知らなくてよかったと思います…。》

右カテゴリー『純情きらり』」のくくりとは別に、『太宰治と家族たち』を加え、整理しました。よろしかったら、どちらもご覧ください。
この新刊書からはたくさんの抜き書きをしています。とてもこれでは収まりません。また以降に書きます。
《NHK教育では、太宰に関して現代女性作家が評論しているシリーズが全4回で放送されています。そちらも興味深く見ています。今週水曜夜放送が最終です。》
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小説太宰治 [太宰治と家族たち]

小説 太宰治 (岩波現代文庫)

小説 太宰治 (岩波現代文庫)

  • 作者: 檀 一雄
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2000/02
  • メディア: 文庫

1949年作。小説ではない。檀一雄は1912~76年。
【~したがって彼の結核が既に決定的な段階に入ったという自覚、彼の世評がほぼ高潮に達しているという安堵と危険、太田静子の懐妊、山崎富栄との不決断な交渉(このいずれの場合も恋ではない、彼のような虚栄の男に恋愛が成立しない事を私はよく知っている)、これらの均衡を見渡して、選ぶ時機は今だと裁決しただろう。
そうしてこの時機に死を選べば、彼が最も憂慮していた妻子が少なくも餓える(かつえる)気づかいのないことをも、もちろん予想した。】
【太宰はちょうど東大仏文科に在籍して、5年目だった私が、経済科の卒業間際、2人でよく制服制帽で出掛けたが、何度も書いた通り、ゆく先は大抵質屋であるか、飲み屋であるか、娼婦の場所ときまっていた。】
【太宰は自分の文学が自殺を持たねば完成をみないという強烈な妄想を早くから持っていた。この妄想に関してだけ、驚くほど誠実である。】
【太宰の座右の書-兼好の徒然草。日本の古典では、あと枕草子。】

【ようやく私は太宰と私との生命の分岐路を自覚した。私は生者の側に立つ。】
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斜陽館 [太宰治と家族たち]

ゆうべNHKの番組を見て、「斜陽館」内部が思っていたより大きくりっぱだったのには驚きました。
短大時代に太宰を専攻してから一度行きたいと思い続けてきましたが、これは是非実行しなければと。
最近の、私の太宰に対する思いは、右欄の“マイカテゴリー 『純情きらり』”をご覧ください・笑。

明日は桜桃忌。生誕100年ということで方々で盛り上がっていますね。
20日に行われる「太宰検定」、本当は受けたかった。でもとても下準備の時間はなかったし。
青森と東京の2カ所で約400人受検とか。予想数より大幅に越えた、いうことですが、けして多いとは思いません。
私のような潜在的な存在も加えれば、もっと莫大なのではないでしょうか。
そうは言っても、実は『人間失格』を読んでいない私です。受検資格ないか!?・苦笑。
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山のある家 井戸のある家 [太宰治と家族たち]

山のある家 井戸のある家 東京ソウル往復書簡

山のある家 井戸のある家 東京ソウル往復書簡

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2007/06/26
  • メディア: 単行本

先日ちょっと書きましたが、津島佑子さんと韓国女性作家との「東京ソウル往復書簡」です。
日本の雑誌に連載、と同時に、韓国の雑誌にも掲載されたというのですから“意味があり”ますよね。
何度かシンポジウム等で会うことがあったふたり。年齢は津島さんの方が16も上だけれど、作品を通してお互いひかれていた。
残念ながら訳者を必ず通してでなければ話せない(読めない)ふたりだけれど、その方(きむ ふなさん)にも恵まれ、なかなかよい一冊になっています。

この中で、津島さんはご自身の息子を亡くした事実(38歳の時、9歳の息子を呼吸発作で)、自分にとってのダウン症の兄の存在、そして今まで避けてきただろう作家である父親(でも実際には彼女が1歳の時に亡くなったので、父親としての記憶はないのです)について語っています《これはかなり珍しいことでしょう》。
国の違う人からの、“お父さんについて是非話してください”だったから、思わず応えたのではないでしょうか。

それでも私は全体として、津島さんより韓国の作家・申さんの方がより素直に思いを吐露している気がしました。
う~ん、でもそれは韓国人翻訳者の日本語の力が優れていたからでしょうか? 難しいところです(:p21~、申さんの文章いいです)。

【母は10年ほど前に、息子は21年前にこの世を去っていますが、兄が亡くなったのはなんともう、46年前のことになります(※享年15歳)。こんなに昔のことはいい加減、忘れてもいいはずだと思うのに、今でも兄は夢のなかに戻ってくることがあるし、とくに命日が近づくと、兄と過ごした子どものころの時間がなまなましく蘇ってきて、あの特別な時間を自分は理不尽に奪い取られてしまったという、「喪失」の痛みを鋭く感じさせられるのです。】

【兄がいなくなってから、なにもかもがすっかり変わってしまいました。ダウン症の兄を中心に、それまでの家族生活は営まれていました。~大学生になって私が小説らしき文章を秘密に書きはじめたとき、私はほとんどこの兄のことしか考えていなかったのかもしれません。そのとき、私も私なりに「喪失」の痛みから、言葉による「再生」を願っていたのでしょうか。】

【私にとっては言うまでもなく、だれよりも大切な兄でした。兄に付き添って自分は一生生き続けようと思い決めていました。それは無理しての考えではなく、ましてや、つらいという思いもありませんでした。でも客観的にみれば、12歳の女の子がそうして自分の未来をすでに決めてしまっていたことになります。他人の話だったら、それは大き過ぎる犠牲ではないか、と考えずにいられないでしょう。でも兄が生きているあいだ、ふつうはこうじゃないんだ、と考えることがなかったのです。~】

【(太宰:父のこと)「自殺」とはどうしても自分の口から言うことはできませんでした。今でも言いたくない言葉ですが。そのうえ、よその女のひとと一緒に死んだなどとはどうしてもひとにはしられたくないヒミツでした。
このようなことを言うと、いかにもつらい子ども時代だったように聞こえてしまうかもしれません。でも私はそれなりに楽しい子ども時代を過ごしていたのです。~
かわいそうに、気の毒に、とおとなたち、クラスのひとたちに言われるときの曰く言いがたい苦痛は忘れられません。~兄は「気の毒なひと」ではなかったし、父親がいなくても、私は「かわいそう」ではなかったのです。】

【幼稚園のころ、母に聞いたことがあります。お父さんはなんで死んだの? 母は一瞬、考えてから、うん、心臓が止まったから、と答えました。~
やがて、どこからか父の肖像写真を見つけました。~母にこの写真をちょうだい、とねだりました。私の気持としては、全然知らない父親なのだから、それぐらいは許されるだろう、と思っていたのですが、母はびっくりするような剣幕で怒り、とんでもない、と私から写真を奪い取ってしまいました。それで、ああ、母に父のことを聞いてはいけないんだな、と思うようになりました。
父が小説家だったということは、家に本があったので、早くからわかっていました。でも、それ以上のことはわからないままでした。
~小学校四年生になったとき(略)、図書室の人名事典で父のことを調べようと思いついたのです。そんなところに名前が出ている作家だと、私は気づいたことになります。~でも、私にはわからない言葉で父の一生が締めくくられていました。まだ若い司書の先生がいたので、素知らぬふりで、この「入水(じゅすい)」という言葉の意味を教えてください、と質問しました。司書の先生はとても冷静に、それは海や川に自分から落ちて死ぬことよ、と教えてくれました。ありがとうございました、と私はできるだけ元気にお礼を言い、図書室を離れました。
~今考えれば、たぶん、司書の先生は私の父についてすでに知っていたのでしょう。でも私によけいなことは言わずにいてくださったのだと思います。それは、本当にありがたい配慮だったと感謝しています。
~その後、父にはほかの女性とのあいだに娘がいることも知りました。私とは異母妹ということになります。そのことにも、私はいやな気持は持ちませんでした。もしかしたら、異母兄とか、ぞくぞくと私の知らない兄弟姉妹が現れるかもしれない、と期待したりもしました。ある日、すてきな異母兄が私の目の前に現れてくれたらいいなあ、などとあこがれたものです。~】

お母さまも必死だったのでしょう。妻としてはこれ以上ない、つれ合いの死の選択でした。子どもからの質問にも詰まったことでしょう。
津島さんご自身も、そういった家族の過去の事実においては、ごく普通のお子さんとして育ったのですね。
大作家の娘、という以前に。

【~私の父が自殺したと言えるのかどうか、じつはよくわからなくて、私の思いのなかではずっと保留のままなのですが、まわりのひとたちはみな、気楽に「自殺」と決めつけています。もちろん、「自殺」と呼ぶほかない死に方だったのかもしれませんが、そうした簡単な言葉で片付けられてしまうことが、私にはいやなのかもしれません。】

いいと思います。それで。何か、その人なりのワケがあってそういう結果となった。世間の言い分は、ほっておいていい。
《太宰は、ましてや子どもをもうけた太田静子と死んだのでもない。また別の人だった。相手にそそのかされたのかもしれないし?(想像の範囲)、そそのかしてしまったのかも(これも想像)しれない。本当のところは本人しかわからない。
子である津島さんも当時は1歳、理由を知る由もない。
※太宰の研究者の説として、長男の障害を苦にした死では、という見方があることもここに書いておきます。
そして私は、これも勝手ですが、そうではないのでは? と思っています(思いたい、のかも)。ただ、当時は現在と比べて、障害児をもっと育てにくい環境ではあったでしょう。
“ご長男に障害があってそれも心配だ、太宰はあのとき、絶対に死ぬはずがない。仕事も途中だった。”-これは先に私が類書を読んだ井上ひさし氏の見解です。逆にこういう見方もあります。
未遂を起こしたことはそれまで何度もあった人ですから、女性遍歴とともにそういう選択をしてしまう気配はあった人だった、というところまで、で私はとらえています。》

津島さんの引用が多くて、相手方に詳しく触れていませんが、私と2歳しか違わない作家・申さんが、先輩作家とこんなに深い手紙を(その多くはおふたりとも、日常のなんとはない自然の移り変わりなどをしたためている往復書簡です)やりとりできるなんて…と思うばかりでした。

今回は、津島さんの兄への思いのほか、新たに父・母への心情を知ることができました。
よくここまで書いてくれたと思います。
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とびとび読書 [太宰治と家族たち]

先週土曜の短大時代の友人たちとの再会(7名)は、久方ぶりで発見も多かった一日だった。後日、書きます。

あっちこっちとしていますが通勤読書だけは確実に保たれている時間です。

「向田さん」関連はもう少し続くのですが、今はまた「津島佑子さん」に。
この韓国女性作家との往復書簡、春に刊行された時から話題にはなっていましたが、読もうと思ったのは、実兄(ダウン症・10代で亡くなった)について言及していることを新聞記事で知ったから。

その通り、本文2pには「絵を描くのが好きだった兄」が、「そんな時代に夫(太宰)を亡くし、知的障害のある子と幼い女の子ふたりを育てなければならなかった私の母」…と綴られていきます。

また興味深い本と出会えたよう。韓国のこの作家の文章も静かでいいです。
2人は言語は違っても通じ合っていることがわかります。
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