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あなた 河野裕子歌集 [河野裕子(かわの・ゆうこ)さんと家族]

あなた 河野裕子歌集

あなた 河野裕子歌集

  • 作者: 河野 裕子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/08/05
  • メディア: 単行本

手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息がー2010年8月、この歌をさいごに遺して、現代短歌を代表する女性歌人・河野裕子は世を去った。その生涯につくられた歌のなかから、夫・永田和宏、長男・永田淳、長女・永田紅の三歌人が1500首あまりを選ぶ(約6500首より)。15ある歌集すべての書影・あとがき、年譜も収録した~決定版アンソロジー。』
今回、河野さんの歌というより、それぞれの歌集の選者となった家族がしたためた書き下ろしエッセイの方に重点を置き、ページをめくっていきました。

第一歌集は、17~25歳までの作品。永田さんいうところの、
「愛の歌」はいくつになっても作ることができます。しかし「恋の歌」は、ある時期にしか作れないのかもしれないと私は思っています。~、ですネ。
寝ぐせつきしあなたの髪を風が吹くいちめんにあかるい街をゆくとき
あとに夫となる永田さんとは21歳で出会い(「同人誌」がらみ・既に2人は歌を編んでいたのでした)、26歳で結婚することとなります。
当時、永田がほめた桜の歌。
夕闇の桜花の記憶と重なりてはじめて聴きし日の君が血のおと
永田さんの感想に押されるようにして、河野さんは角川短歌賞に応募を決心、初めてで見事受賞。突っ張って、そういうのには背を向けていた男たちを差し置いて河野はいともやすやすと…とありました。

子を持つと、一気に主題はそちらへとうつります。
【寂しさを知り分けし子が母を呼ぶ草笛よりも繊きそのこゑ】
【動物園の匂ひかすかに持ち帰り吾子ふさふさと陽をまとひ眠る】
~第一歌集(1972年)上梓の後の5年間に、私は生涯の伴侶と二人の子供たちを得ました。この者たちは、それまで狭小なおのれひとりの世界に閉じこもっていた私に、様ざまなものを与えてくれました。

《私が母のお腹のなかで胎動を始めてから、母が死ぬまでに作られた、私を歌った歌は実に500首に近い。古今東西見回してみても、私ほどに歌に詠まれた息子はいないのではないだろうか。》
…1973年生まれの長男(歌人、出版社:青磁社代表)の言葉であります。
前にも転記してますが、やはりこれはいい。
子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る

「決定版アンソロジー」といっているだけあり、永田さんも繊細な部分まで書いています。いや、私がまだ具体的に永田さんが妻のことを語った随筆にあたっていないので、知らなかったというだけかもしれないのですが。自分の父親と妻が同居においてうまく行かず引っ越しした、というような事実などにも及んでいます。
向田邦子さんの妹・和子さんが『作家として世に作品が出ているのだから、読者がいる以上、その背景は包み隠さず公表していくのがつとめだ』みたいなことを書かれていたのを思い出しました。

長女(1975年生まれ・歌人、生化学研究者)紅(こう)さん。
母は、男名のようで女の子らしい名前、というのが好きだった。》
紅さんの兄・淳さんの長男は櫂(かい)くん。永田夫妻の初孫。河野さんの容態がもう予断を許さないというとき、「おれ、歌作ろうかな」(小5当時)と言い出したそうだ。
《父は母の耳元で大声で「おい!櫂が歌を作るってよ!」と、どこか哀願するような調子で叫んだ。薄れゆく意識の中で母はそのことを知って死んでいってくれたのだろうか。今では高校2年生、近頃はサボりがちながらも、すこし変わった歌を作り続けている。》そうだ。

【ごはんを炊く 誰かのために死ぬ日までごはんを炊けるわたしでゐたい
…50年ほど歌を作ってきてほんとうによかったと、この頃しみじみ思う。歌が無ければ、たぶんわたしは病気に負けてしまって、呆然と暮らすしかなかった。】

紅さん。
《母が亡くなってはじめて、気づいた。風呂場で小さくなった石鹸を見ると、
【薄くなりし石鹸に石鹸を貼りつけて子供ふたり洗い終へたり】
をかならず思い出す。
『葦舟』は、母が自分で手にすることのできた最後の歌集になった。個人的にいちばん好きである。はじめから透明な部分だけを掬い取ろうとすると嘘くさくなる。とりあえず何でもほうり込んで混ぜておく。そうして生じる沈殿も上澄みもひっくるめて歌なのだということが、このごろの私にも心強く思われる。》

【二年もすれば丈を越されるこの櫂を抱きしめぬ十歳の弾むからだを】
【抱きしめてどの子もどの子も撫でておくわたしに他に何ができよう】
亡くなるまでに、孫(淳さんの子:長男・櫂に続き、長女・玲、次男・陽、三男・颯)4人となっていました。
【夏帽子かぶりし子供がおりてくる石段の上にしやがんだりして】
紅さんは、河野さんが亡くなる年に結婚。その後、母になりました。紅さんのお子さんと会うことは叶いませんでした。実のお母さまを失ってからの出産&子育て、考えるところがあったと想像します…。
【洗濯機の終了ブザーが鳴るまでにまだ少しあり夕蟬のこゑ】

《(永田さん)河野裕子は2010年8月12日の夜に亡くなった。亡くなる当日まで歌を作りつづけた。~鉛筆を持ち続ける力がなくなると、彼女の口から出る言葉を、身近にいるものが書きとめるという形で数十首の歌が残された。~私も、娘の紅も、息子の淳も、それぞれが口述筆記によって歌人の河野裕子の最後の場に立ち会うことができたことを、幸せなことだと思っている。意識して、そんな機会をそれぞれに残してくれたのかもしれない。》

私はまだ、壮絶な闘病中の様子を文章としてみてはいません。
それは、2012年放映のBSプレミアムドラマで知ったのみ(今となっては録画を残しておけばよかった)。それ以前に、NHK・ETV特集もあったそうで見たかった(巻末年譜より)。
ぼちぼちと、深くいってみます。

…そうそう、この家族の拠点は「京都」です。昔々、2度の修学旅行で訪れたのみ。私には敷居高く思われる場所なので敬遠(笑)してきましたが、このタイミングに「大人になってからの京都旅」をしっとりとするのもよい?…と思ったりも。 太宰《津軽》ホームズ《ロンドン》と追いかけたように。
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